刀伊の入寇の際に賊を迎え撃って討死をした『藤原理忠の墓』
藤原理忠の墓。
理忠は壱岐の嶋司で寛仁3(1019)年に刀伊賊(女真族)の五十余艘の船団により対馬・壱岐及び筑前・肥前が襲撃を受けた際に僅かな手勢を率いてこれを迎え撃ち、刀伊の攻撃を三度までもちこたえたが、衆寡敵せずついに討死をしたと伝えられている。(いわゆる刀伊の入寇)
この時に嶋分寺の講師でただ一人壱岐を脱出して大宰府に惨状を報告した常覚によると「賊徒三襲、毎度撃返、後不堪数百之衆、一身迯脱(賊徒が襲ってきて、三度までは退けましたが、数百の数には耐え切れず、一人逃れてきました)」との報告がなされている。
また、壱岐島の被害としては嶋司の理忠をはじめ148人(男44人、法師16人、童子29人、女59人)が殺され、捕虜となった者239人、島内で生きのびた者は35人であったとされている。
再訪問なのでサクッと行けると思っていたのだが、かなり苦労をさせられた。
なぜならば、その時(二度目の訪問時)はもう完全に野に埋もれてしまっている状態となっていて、倒木や雑草に覆われてしまっていたからだ。
地元では「理忠(りちゅう)さんの墓」と親しみを込めて呼んでいるとのことだったのだが、今の現状は6年前に私が訪ねて以来ただの一人も訪ねてこなかったのではないか?と思えるような荒れっぷり・有様だった。
倒木をのけ払い、草刈りをしてここまで復旧したのだが。。。
所在地→長崎県壱岐市勝本町立石南触
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