北条時行の墓
目次
〇北条時行とは?
〇長野県大鹿村に伝わる北条時行の墓
〇北条時行の墓の所在地
~以下北条時行の生涯~
①鎌倉幕府滅亡、北条時行、信濃に落ち延びて潜伏する
②時行、北条氏再興の兵を挙げ、鎌倉を奪還する(中先代の乱)
③北条時行、南朝(後醍醐天皇)に帰順
④北条時行、二度目の鎌倉入り
⑤北条時行、後醍醐天皇と直接対面し、命を受ける?
⑥北条時行、信濃伊那谷の大徳寺城で挙兵する
⑦北条時行、三度目の、そして最後の鎌倉入り
⑧北条時行の最期。龍ノ口処刑場にて露と消える
北条時行とは
北条時行は鎌倉幕府第14代執権で最後の得宗(北条家嫡流)である北条高時の次男。幼名は亀寿丸。
元弘(1333)年5月22日、新田義貞の鎌倉攻めによって鎌倉幕府が滅亡した際に、幼少であった時行は得宗被官の諏訪盛高に護られて鎌倉を脱出、信濃に落ち延び諏訪大社上社の大祝(神官のトップ)である諏訪頼重のもとに匿われた。
建武2(1335)年7月14日には諏訪頼重・時継親子らに擁立され、北条氏再興のための兵を挙げ(中先代の乱)、一時的にとはいえ、鎌倉を奪還した。
その後は南朝方となり、生涯を通じて鎌倉奪還・北条氏の再興を目的として何度となく逃亡・潜伏を繰り返しながら、足利氏と戦い続けたが、最後は足利氏によって捕らえられ、正平8(1353)年5月20日に鎌倉郊外の龍ノ口にて処刑され、その波乱に満ちた生涯を閉じた。
長野県大鹿村に伝わる北条時行の墓
長野県大鹿村の桶谷地区には時行が潜伏したとの言い伝えがあり、昭和39年のダム建設に伴い全戸移住するまで時行後裔と称する北条姓を名乗る家が4戸あった。
大鹿村誌によれば、桶谷は「王家谷」が「おけや」になったのだというが、真偽のほどは分からない、桶谷に「頭屋敷・別当・木戸口」などの名があり、時行が桶谷に隠れ住んだ名残で、頭屋敷は佐馬頭時行の居住地、別当は将士統轄所、木戸口は守備の木戸口であるといったことが紹介されている。
桶谷地区はダム建設に伴い、今は昔の面影も見られぬほど変わり果てた(大鹿村誌)とのことであるが、現地には、現在でも時行の墓とされるものが現存している。
墓碑は高さ38cm、幅16cm、厚さ13cmで正面には「久昌禅定門」と刻まれている。
右側面には「成林禅定尼」と刻まれている。
右側面アップ。
所在地→長野県大鹿村大河原桶谷
~以下北条時行の生涯~
鎌倉幕府滅亡、北条時行、信濃に落ち延びて潜伏する
元弘(1333)年5月22日、新田義貞の鎌倉攻めによって父・高時以下一族郎党870名余りが自害し鎌倉幕府が滅亡した際に、幼少であった時行は得宗被官の諏訪盛高に護られて鎌倉を脱出、信濃に落ち延び諏訪大社上社の大祝(神官のトップ)である諏訪頼重のもとに匿われた。
時行、北条氏再興の兵を挙げ、鎌倉を奪還する(中先代の乱)
建武2(1335)年7月14日には諏訪頼重・時継親子・滋野一族らに擁立され、相模次郎と号して北条氏再興のための兵を挙げ(中先代の乱)、信濃守護・小笠原貞宗を撃破すると破竹の勢いで進撃し、武蔵女影原で渋川義季・岩松経家を、武蔵国府で小山秀朝を、武蔵小手指原で今川範満を打ち破り、これらを自害あるいは討死させた。
7月22日には武蔵井手沢で自ら大軍を率いて出撃してきた足利直義を打ち破り、敗れた直義は後醍醐天皇の皇子である成良親王と足利尊氏の嫡子である義詮を伴って京都に敗走し、7月25日にはついに父祖伝来の地である鎌倉を奪還した。挙兵からわずか12日後のことであった。
鎌倉を奪還した際に時行が発給した文書の年号は「建武」ではなく、父・高時が使わせていた「正慶」の年号が使われていて、さらにその文書様式は北条泰時以来、代々の得宗が用いた得宗家公文書奉書の型であったという。
しかしながら、時行の鎌倉奪還は長くは続かなかった。直義の敗報を受けた足利尊氏が8月2日に大軍を率いて鎌倉を目指して下向してくると、8月9日に遠江橋本で時行軍が敗北したのを手始めとして、8月12日に遠江小夜中山で、8月14日に駿河国府・高橋・清見関で、8月17日に相模箱根で、8月18日に相模川で、8月19日に相模辻堂・片瀬の合戦で撃破されると、同日に鎌倉を奪還され諏訪頼重・時継親子ら時行方の主だった武士43人は勝長寿院において自害して果てた。みな誰が誰とも分らぬように顔の皮を剥いで自害したため、人物の特定ができなかったとのことである。
「北条時行もきっとこの中にいることだろう」と、その話を聞いて悲しまない人はいなかったと太平記には記録されている。
ところが、この中に北条時行の姿はなかった。時行は死んではおらず再挙を期して人知れず落ち延びていたのである。
北条時行の起こした乱は、鎌倉時代の北条氏の「先代」と室町時代の足利氏の「後代」との中間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。また、鎌倉占拠の期間が20日余りしか続かなかったことから、二十日先代(はつかせんだい)の乱とも呼ばれている。
北条時行、南朝(後醍醐天皇)に帰順
続いて時行が姿を現すのは建武4(1337)年7月で、吉野で南朝を開いたばかりの後醍醐天皇に使者を派遣して、朝敵の北条高時を父に持つ自分を赦免して、憎むべき足利尊氏・直義兄弟の討伐に加えてほしいと願い出たのである。
なぜ時行は鎌倉幕府を滅ぼし、北条一族を滅亡させた仇敵の後醍醐天皇(南朝)に帰順して、父・高時を死に追いやった新田義貞の一族と組んでまでして、足利氏を敵として戦い続けることにしたのだろうか?この時の時行の心中はいかばかりだったのだろうか?
太平記によれば「父・高時が滅ぼされたのは、高時が臣下の道をわきまえなかったためであり、君(後醍醐天皇)のことは少しも恨んでおりません。元弘の時に義貞は関東を滅ぼし、尊氏は六波羅を攻め落としましたが、あの二人はどちらも勅命によって征伐をしましたので、怒りは忘れておりましたが、尊氏がたちまち朝敵となり天下を奪わんと企てている野心が露見しております。そもそも尊氏の今があるのは、ひとえに当家(北条家)が優遇した厚恩によるものです。しかしながら、尊氏は恩を受けながら恩を忘れ、後醍醐天皇に反逆を企てております。その大逆無道の甚だしさは世の人の憎むところであり非難するところです。このため、北条一族は他の者は敵とはせず、ただただ尊氏・直義に対してその恨みを晴らしたいと思っております。どうか帝のお許しをいただきたく、朝敵誅罰の計略を巡らすように綸旨をいただきますならば、必ず官軍の正義の戦いを助け、帝の徳による治政を仰ぎ申し上げます。」と後醍醐天皇に申し出たという。
これに対し、後醍醐天皇は朝敵恩免の綸旨を時行に下して尊氏・直義の追討を命じた。こうして時行は後醍醐天皇から与えられた朝敵の汚名を、後醍醐天皇自身から赦免され、以後、南朝方の一武将として足利氏と戦い続けることとなった。
北条時行、二度目の鎌倉入り
後醍醐天皇から許しを得た時行は、建武4(1337)年8月に義良親王を奉じて奥州から二度目の上洛の途についた北畠顕家の軍に呼応して伊豆で挙兵、五千余騎で足柄・箱根に陣取った。新田義興も上野で挙兵し、顕家軍は12月28日に鎌倉を攻め落とした。これが時行にとっては中先代の乱以来、二度目の鎌倉入りであった。時行はそのまま顕家軍とともに西上し、暦応元(1338)年1月28日には美濃青野原の合戦で土岐頼遠・高師冬らの軍と戦い、これを打ち破った。
この時、不思議なことに当然に勝ちに乗じて北国の新田義貞と合流して京都に進撃すると思われた顕家軍が突如として兵を転じて南下、伊勢路に向かったのである。これにより足利氏は九死に一生を得たといわれている。理由の一つとして顕家軍にいた時行が父の仇である新田義貞との合流を嫌がったためではないかとの説がある。しかしながら、この時の顕家軍には時行のみならず義貞の次男・新田義興も従軍しているなど、この解釈には疑問の余地があり、北畠顕家が京を攻めず、また新田義貞と合流しなかった理由は謎のままである。
いずれにしても、この足利軍との決戦を避けて軍を伊勢に向けたことが致命的な判断ミスとなり、兵を整える余裕を得た足利軍により戦況は次第に不利となり、5月22日に顕家は和泉石津で討死した。
この時も「時行はまたしても」うまく逃れている。
北条時行、後醍醐天皇と直接対面し、命を受ける?
顕家の敗死後、時行は吉野に逃れた。次に時行の行動が確認できるのは暦応元(1338)年9月である。
北畠顕家・新田義貞らの戦死によって劣勢となった南朝の軍事力を再建するべく、義良親王・宗良親王・北畠親房・北畠顕信・結城宗広・伊達行朝らが伊勢大湊から出帆した。義良親王を陸奥へ、宗良親王を遠江に派遣し、南朝の勢力挽回を目指すものであった。この際に北条時行は新田義興とともに後醍醐天皇より「関東八ヶ国を平らげて、義良親王を援助せよ」との命を受け、武蔵、相模に下された。(この時に時行は後醍醐天皇と対面を果たしたのだろうか?)
しかしながら、この南朝の大船団は海上で暴風雨に遭い、散り散りとなってしまい、時行の消息は「またしても不明」となった。
北条時行、信濃伊那谷の大徳寺城で挙兵する
次に時行の行動が確認できるのは暦応3(1340)年6月である。6月24日に時行は諏訪大社上社の大祝である諏訪頼継(諏訪頼重の孫で時継の子)とともに、信濃国伊那郡の大徳寺城で挙兵した。信濃守護・小笠原貞宗の大軍に包囲され、約四ヶ月にわたる籠城戦の末に、10月23日に大徳寺城はついに落城し、諏訪頼継は負傷して諏訪に敗走、時行の消息は「またしても不明」となった。
それからの十数年間、時行の消息は杳として知れなかった。
北条時行、三度目の、そして最後の鎌倉入り
次に時行の行動が確認できるのは正平7(1352)年である。閏2月15日に新田義興・義宗・脇屋義治が上野で挙兵し、足利尊氏の軍を随所で破って進撃し、閏2月20日に鎌倉を奪還することに成功した。時行も義興たちに合流して鎌倉に入っている。これが時行にとって三度目の、そして最後の鎌倉入りとなった。しかしながら、今回の鎌倉占領も長くは続かず、閏2月28日には反撃に転じた足利尊氏により、鎌倉は奪い返された。
鎌倉が再度足利軍に奪い返された時に、時行はまたしても消息不明となった。
北条時行の最期。龍ノ口処刑場にて露と消える
最期に時行の名前が確認できるのは正平8(1353)年5月20日である。これまで何度となく逃亡・潜伏を繰り返していた時行はついに足利氏によって捕らえられ、鎌倉郊外の龍ノ口にて処刑され、波乱に満ちた生涯を閉じた。奇しくも鎌倉幕府滅亡の日から20年を迎える2日前の出来事であった。ここに北条得宗家は名実ともに滅亡したのである。
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