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琉球王国の最後の南山王『他魯毎の墓』

琉球王国の最後の南山王『他魯毎の墓』 他魯毎は南山王として冊封された「汪応祖」の長子で、汪応祖が兄の「達勃期」に謀殺された後を継いで1415年に南山王に即位した。 他魯毎は進貢貿易に積極的で南山の最盛期を築いたとされる先…

少弐資時の墓

少弐資時の墓 少弐資時の墓。 資時は少弐経資の三男で、文永の役の際には叔父である少弐景資に従って12歳で初陣し、博多湾岸に上陸してきた蒙古軍に向かい、一番に名乗りかけて矢合わせをしたことで、その名が知られている。 その後…

大友頼泰の墓

大友頼泰の墓 頼泰は大友家第三代当主で大友家惣領として初めて豊後に入国し、以後大友氏は豊後に土着し勢力を築いた。 頼泰は仁治3(1242)年に鎌倉幕府の御成敗式目を参考にして「新御成敗状」28条を作成し、寛元2(1244…

宗右馬次郎盛就の墓

宗右馬次郎盛就の墓 宗氏家譜には文永の役で討死した将士の名が三十余名列記されていて、その中に宗を名乗る一族が十名いる。 元軍の軍船は九百艘とされ、対馬には全島が襲撃されたとの伝承がある。 新対馬島誌によれば、盛就は助(資…

大友親時の墓(中尾五輪塔)

大友親時の墓(中尾五輪塔) 大友家第四代当主・親時の墓。 親時は大友頼泰の長男で文永・弘安の役の際には父・頼泰とともに博多に出陣し、九州の諸将を指揮して蒙古軍と戦い武功を挙げた。 父・頼泰のあとをうけて鎮西談議所頭人をつ…

大友親時夫妻の墓

大友親時夫妻の墓 大友家第四代当主・親時の墓。 親時は大友頼泰の長男で文永・弘安の役の際には父・頼泰とともに博多に出陣し、九州の諸将を指揮して蒙古軍と戦い武功を挙げた。父・頼泰のあとをうけて鎮西談議所頭人をつとめたが、永…

宗越前五郎の墓

宗越前五郎の墓 宗越前五郎盛賢の墓。 宗氏家譜には文永の役で討死した将士の名が三十余名列記されていて、その中に宗を名乗る一族が十名いる。 元軍の軍船は九百艘とされ、対馬には全島が襲撃されたとの伝承がある。 越前五郎は宗氏…

宗右衛門三郎の墓

宗右衛門三郎の墓 宗右衛門三郎の墓。 宗氏家譜には文永の役で討死した将士の名が三十余名列記されていて、その中に宗を名乗る一族が十名いる。 元軍の軍船は九百艘とされ、対馬には全島が襲撃されたとの伝承がある。 宗助(資)国の…

宗助国(資国)の手足塚

宗助国(資国)の手足塚 宗助国(資国)は宗家初代・重尚の末弟で重尚から襲封云々とあるが確証はない。 一方、他の確実な史料における宗氏の初見で、対馬守護・地頭である少弐氏の守護代、地頭代を勤めていたことが知られる最初の人物…