北条高時腹切やぐら




北条高時腹切やぐら

北条高時腹切やぐら。元弘3(1333)年5月22日、新田義貞らの軍勢の鎌倉攻めにより、追い詰められた北条高時以下一族郎党870名余りは菩提寺である東勝寺に逃げ込み最後の一戦をしたものの敗れ去り、自ら寺に火を放って次々と自害しここに鎌倉幕府は滅亡した。

太平記によると北条高時以下、一族郎党は

「父祖代々の墳墓の地なれば心しずかに自害せんため」に東勝寺に逃げ延びてきたと記されている。

そして「総じてその門葉たる人二百八十三人、我先にと腹を切って、屋形に火を縣けたれば、猛炎さかんに燃え上がり、黒烟天をかすめたり。庭上・門前に並んでいた兵どもこれを見て、あるいは自ら腹を切って炎の中に飛び入るもあり、あるいは父子、兄弟刺し違へ、重なり伏すもあり。血は流れて大地にあふれ、漫々として洪河の如くなれば、尸(かばね)は行路に横たわわって累々たる郊原の如し。死骸は焼けて見えねども、後に名字を尋ぬれば、この一所にて死する者、総て八百七十余人也。」とある。

太平記に記された鎌倉幕府滅亡の際の情景はおそらくほぼこの通りの経過をたどったものと思われる。

この腹切やぐらは、北条一族の最後の地となった東勝寺の奥にあり、高時の首が葬られた場所と言われていて、中には北条高時の墓と伝えられている五輪塔と北条一族の人々を供養する卒塔婆がたくさん立てかけられている。

やぐらの前に建つ角塔婆には「日輪寺殿崇鑑大禅定門」と北条高時の法名が記されているなど、現在でも不気味で重苦しい雰囲気が漂った鬼気迫る空間となっている。

~北条高時腹切りやぐらの考察~

三方を山に囲まれ難攻不落を誇っていた鎌倉。しかしながら新田義貞率いる軍勢にその『絶対防衛圏』だった「切通し」を次々と打ち破られた北条氏はついに最後の時を迎える。敗残の兵たちはみな北条氏の菩提寺である東勝寺に逃げ延びてきた。北条高時以下、北条一門や配下の御家人たちは敵に首を取られるくらいならと東勝寺に火を放ち、各々が思い思いに自害をして果て、ここに鎌倉幕府は滅亡した。その数870人余り。

さて、現在、この東勝寺跡のさらに奥にいわゆる『北条高時腹切やぐら』というものがある。その名の通り、追い詰められ覚悟を決めた北条高時以下、一族郎党870人が腹を切った(自害)ところとされる。

が、どう考えてもそのやぐらには「いい大人」がどー頑張っても精々10人程度しか入ることができない。こんなところに870人も入ることはそもそも不可能であるし、北条一門の当主である高時がここで腹を切ったとは思えない。(ここで自害をしようとするならば一名様でも満員御礼だ)

やはり、北条高時以下、一族郎党870人は東勝寺で自害したのだと思う。

近年、いわゆる『北条高時腹切りやぐら』は870人もの人が自害した鎌倉幕府滅亡の地で、怨念が渦巻く心霊スポットとして名を馳せていて、様々な恐怖体験や心霊体験(そこだけ温度が違う、金縛りにあった等々)が報告されているが、それは違うだろと思う今日この頃(っていうか何年も前からそう思っているけど…。)

人は見たいものを見る…。

※但し、この腹切りやぐらに供養塔が建てられているのは事実であり、ひょっとしたら、東勝寺で自害した870人の遺体が後日ここで火葬されたとかいう事実があったのかも知れない。また、北条氏の菩提を弔うために創建された宝戒寺により、北条高時腹切りやぐらが今日まで大切に管理されてきたこともまた事実である。しかしながら、実際にここで腹を切った者がいたのかどうかという点に付いては極めて疑わしいと思う。

所在地→神奈川県鎌倉市小町3-10

 

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