「三本の矢」で有名な「毛利一族」の発祥の地は神奈川県だった?
あの「三本の矢」の逸話で有名な「中国地方を統一」した「戦国武将・毛利元就」を輩出した『毛利一族』の発祥の地が、実は「神奈川県の厚木市」であるとの噂を聞き付けましたので、早速レポートをしてみたいと思います。
「毛利元就」は戦国時代に「中国地方を統一」した武将です。
「毛利元就像」
「毛利元就」には「毛利隆元」「吉川元春」「小早川隆景」という3人の優秀な息子たちがいたことはよく知られています。
「毛利隆元像」
「吉川元春像」
「小早川隆景像」
この3人の息子たちに元就が弓矢を用いて『兄弟が力を合わせることの重要性』を説いたとされるのが有名な『三本の矢』の逸話です。
戦国武将の毛利元就が、子の隆元・元春(吉川氏に養子)・隆景(小早川氏に養子)に授けたという教え。一本の矢は容易に折れるが、三本まとめてでは折れにくいことから、一族の結束を説いた。三矢の教え。
「3本の矢」の教えとは、毛利元就が3人の息子(隆元、元春、隆景)に「1本の矢ではすぐに折れてしまうが、3本を束ねれば簡単に折れない。だから3人が力を合わせて毛利の家を守れ」と諭した故事に由来している。
そんな毛利氏の出身地は「当然」「中国地方」かと思いきや、実は『神奈川県の厚木市』であるとのことです。
毛利氏は、源頼朝が開いた鎌倉幕府の功臣であった大江廣元(1148~1225)からでている。大江廣元は、頼朝の政治を補佐し、特に守護、地頭の設置を献策したことで知られている。
これらの功により、現在の厚木市小鮎・荻野・南毛利地区などを中心とした「相模国毛利庄」をはじめとした多くの所領が与えられた。
廣元には六男五女の子供があり、四男の季光(1202~1247)が後を継ぎ、庄名をそのまま苗字として、毛利季光と名乗った。季光は毛利元就(1497~1571)や毛利輝元(1553~1625)の先祖であって、大江氏流毛利氏の始まりである。
それでは、早速、神奈川県の厚木市を訪ねてみましょう!
厚木市の下古沢にある三島神社
季光が居住した屋敷は、遺物等に残っていないものの、地域伝承や古い地図、古い地名などから、ここの三島神社を中心とした一画にあったと伝えられている。
三島神社の境内にある「大きなクスの木」の下に『毛利氏発祥の地』の石碑が建てられています。
動画も見てみよう!
では、どうして「毛利氏」は相模国(神奈川県)から安芸国(広島県)に移ったのでしょうか?
出典:https://www.city.atsugi.kanagawa.jp/shiminbenri/kosodatekyoiku/bunkazai/shishi/mouri/p002902.html
毛利荘を受け継いだ季光は、承久の乱の戦功などにより鎌倉幕府内での地位を高め、評定衆(ひょうじょうしゅう)として幕政にも参与した。しかし、妻の実家三浦泰村(みうらやすむら)と執権(しっけん)北条時頼とが争った宝治合戦(ほうじかっせん)が始まると、三浦方に味方して敗れてしまった。
毛利氏の名跡は、季光の四男経光(つねみつ)が引き継ぎ、経光は没収を免れた越後国(新潟県)佐橋荘(さばしのしょう)を拠点とした。経光の四男時親(ときちか)は北条得宗家との縁を強くしたことから、六波羅評定衆にまで出世し、毛利氏の再興に成功した。
これによって西国の情勢にも通じた時親は、南北朝内乱を契機に所領安芸国(広島県)吉田荘(よしだのしょう)への移住を敢行する。
【毛利氏系図】大江広元から毛利元就まで
大江広元-(毛利)季光-経光-時親-貞親-親衡-
元春-広房-光房-熈元-豊元-弘元-興元-元就
いかがでしたか?あの「三本の矢の教え」で有名な「毛利元就」を輩出した毛利一族のルーツが「中国地方」ではなく「相模国(神奈川県)」だったことに驚かれた方も少なくないと思います。是非皆さんも神奈川県を訪ねた際には『厚木市の毛利氏の発祥の地』も併せて訪ねてみてはいかがでしょうか?
毛利氏の発祥の地の石碑の所在地→神奈川県厚木市下古沢659
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