日の丸発祥の地&近代造船発祥の地
「太陽神」を表す「日の丸」は、日本では古くから紋章として朝廷や武将たちに使用されてきたもので、江戸幕府も御用船の船印として使っていたものである。
幕末、西欧列強が東アジアに進出してきた時代に、島津家第28代当主・島津斉彬は「海から来る敵は海で防ぐべきである」と考え、桜島の瀬戸・有村、垂水の牛根に造船所を設け、洋式軍艦の建造に取り組んだ。
また嘉永6(1853)年 、ペリー艦隊が浦賀に来航し、幕府が海防の必要性に気づくと、同年12月、島津斉彬は、幕府に大船建造の解禁と、大船15隻を建造することを幕府に願い出ると同時に、日本の船と外国の船とを区別するために、白地に朱の「日の丸」を日本のすべての船の船印とすることを提案した。
幕府から大船を建造することを許可されると、斉彬は瀬戸で昇平丸、有村で大元丸・永天丸、牛根で鳳瑞丸、万年丸を建造した。
軍艦建造は五隻で終わったが、大隅半島と桜島の間の海峡は、日本における近代造船発祥の地となった。
しかしながら、幕府は薩摩藩が大船を建造することは許可したものの「日の丸」の採用については保留とした。
そこで、島津斉彬は側近に「日の丸」の大きさや色などのデザインを研究させ、見本を作って幕府に提出し、老中の阿部正弘などに「日の丸」の採用を強く働きかけた。
幕府の中でも様々な意見があってなかなかまとまらなかったが、水戸藩の水戸斉昭が島津斉彬のデザインした「日の丸」案を強く支持したこともあって、安政元(1854)年7月11日、ついに幕府は「日の丸」を日本の船の総船印とすることを布告した。
安政2(1855)年、薩摩藩が造った日本最初の洋式の帆船軍艦「昇平丸」は、幕府に献上される際に、日本の船であるという印として、初めて「日の丸」を掲げ、鹿児島から江戸へ回航し、品川に入港した。
さらに明治3(1870)年1月27日、政府は太政官布告第57号「郵船商船規則」の中で「御国旗之事」として「日の丸」の規格を定め、以後「日の丸」は国旗として使用されるようになった。
このように、大隅半島と桜島の間の海峡は、国旗「日の丸発祥の地」であるということができる。
所在地→鹿児島県垂水市牛根麓
関連記事
最新情報をお届けします
コメントを残す