陸の孤島として名高い「菅浦集落」の東西入口に建つ『四足門』




陸の孤島・かくれ里として名高い「菅浦集落」の西と東の端に建つ『四足門』

菅浦集落は琵琶湖の北端に面し、背後の三方を標高約400mの急峻な山々に囲まれた入江の集落で、昭和41(1966)年に道路が開通するまでは他の地域との往来は基本的に舟でしかできない周囲から隔絶されたまさに「陸の孤島」であった。

このような周囲から隔絶された立地から、菅浦集落では自立して村を守り外部の支配に屈しない自立性の高い独自の歴史と文化が育くまれ「惣」といわれる自治的村落共同体がいち早く形成され、村掟に基づく住民自らによる高度な自治が行われていた。

強固な団結と自治意識に貫かれた「菅浦惣」はいわゆる中世の惣村(村落共同体)の典型であると言われ、国宝に指定されている『菅浦文書(開けずの箱と呼ばれる箱の中で秘匿されてきた1200点余りの文書群)』を伝存してきた、日本史の中で「惣村」を語る際に必ず登場する村としてあまりにも著名である。

他にも奈良時代の恵美押勝の乱で道鏡や孝謙上皇に敗れて廃位になった淳仁天皇が隠れ住んでいたという伝説や淳仁天皇の御陵と伝えられる墳墓がある。

集落内は中世の惣村と呼ばれる村落共同体の名残を色濃く残し、台風などによる高波の被害を防ぐため湖岸や屋敷の前面などに波よけの石積が張り巡らされているなど独特の文化的景観を形成していていることから、平成26(2014)年には「菅浦の湖岸集落景観」として、国の重要文化的景観に選定された。

そんな菅浦集落には東と西の端(入口)に外界との領域を明確に区分するための四足門と呼ばれる茅葺きの棟門がある。

四足門は菅浦を象徴する建造物で中世惣村の存在形態を具現した建物である。

四足門は四方門とも呼ばれ、集落の途切れる東西外端部にほぼ同じ規模、形式の2棟の門が建っている。

西の四足門

四足門と呼ばれるが構造上は薬医門である。

東の四足門

棟札から文政11(1828)年8月に再建されたことが知られる。

尚、中世から明治の初年頃までは東西南北の集落入口に四つの門があり、かつては須賀神社二の鳥居付近と集落北端の山道(祇樹庵の前の道を10メートルばかり神社の方へ上ったところ)にも設けられていたと言われている。

四足門が建つ四ヶ所は湖岸や山を通って来た道が、集落外から集落内へ入る入口に当たる場所であり、この門の内側が集落の中、門の外が集落の外であることを示していて、人の出入りの検察が行われたと伝えられている。

四足門は門柱が四本あるので四足門と呼ぶとも、かつては集落内に四棟あったので、この名があるとも言われている。

これらの門は15世紀から16世紀にかけて建設された可能性が高いと推測されているが、門扉がなく、塀や垣も設けられていないことから、物理的な閉鎖機能というよりも集落の領域を設定し、集落の内部空間を秩序化するという象徴的な結界装置としての門であると考えられているともいう。

西の四足門の所在地→滋賀県長浜市西浅井町菅浦

東の四足門の所在地→滋賀県長浜市西浅井町菅浦

「西の四足門」

四足門は菅浦集落の象徴的な存在である。この四足門がなかったら菅浦集落を訪ねた時の趣きはまるで違うものになるのではないかと思える。

四足門の横には六地蔵がある。

「東の四足門」

東の四足門の先には家が一軒しかなく(昔はその家もなかったのだろうか?)、その先には進めない。

陸の孤島、かくれ里と称される菅浦集落の中でも、東の四足門はまさに最果てという感じがする。

西の四足門と違って琵琶湖を背景にした情景を見ることができる。

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