島の全域が「霊地・霊場!」俗世と隔絶された「松島」の『雄島』
「雄島」は「日本三景」の一つとして名高い「松島」にある陸地からわずか20mほど離れたところに浮かぶ南北200m、東西40mほどの細長い小さな島である。
古来、歌枕の地として有名で「後拾遺和歌集」「千載和歌集」「新古今和歌集」「続古今和歌集」「新後撰和歌集」などに数多くの和歌が残されている。
現在では松島の一般的な観光コースからは外れているため訪ねる人も少ないが、実は「奥州の高野」といわれる瑞巌寺の奥の院(松島の奥の院)とされ、島内には所狭しと至る所に岩窟が掘られ、卒塔婆・仏像・五輪塔・法名等が彫られていたり、安置されているなど、雄島全域が「霊地・霊場・聖地」といった様相である。
渡月橋と名付けられている雄島に渡るための朱色の橋。
渡月橋は悪い過去と決別して悪縁を切る橋と言われていて、かつて雄島へ修行に渡る僧たちが俗世との縁を切ったとの由来から、良縁を結ぶ前の「悪縁を絶つ縁切り橋」とも呼ばれている。
島内に点在する岩窟は現在は50余りであるが、その昔は108箇所あったといわれていて、雄島は諸国から松島に集まった僧侶、巡礼の人々が修業した全島が霊場だったことが知られている。
その代表とも言える見佛上人は、長治元(1104)年に伯耆国から雄島に移住して妙覚庵を建立し、以来一歩も島を出ることなく12年間法華経6万部を読誦したとされ「月まつしまの聖」「空の聖」と称された。
見佛上人は鳥羽天皇からもその高徳を讃えられ、松の苗木千本を下賜されたので雄島は「千松島」「御島」と呼ばれるようになったとされる。(一説にはこれが「松島」の名称の由来となったともいわれている。)
このように雄島(御島)は古代から松島を代表する島で『松島』という名称は雄島に名付けられたものが次第に範囲が広くなって「現在の松島の総称」となったとされていることから、「雄島」は『松島の地名発祥の地』とも伝えられている。
その後、見佛の再来と仰がれた頼賢が弘安8(1285)年に雄島に移り住み、見佛と同じく島から一歩も出ず、22年間島に籠って修行をしたとされ、島の南端には奥州三古碑の一つである「頼賢の碑」が建立されている。
江戸時代になると「俳聖・松尾芭蕉」も訪ねていて「おくのほそ道」では雄島の印象を「雄島が磯は地つづきて海に出たる嶋也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え待りて、落穂、松笠など打けぶりたる草の庵閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。」としている。
雄島には芭蕉およびその門人を顕彰する句碑が数多く建立されている。
このように「雄島」は『歌枕の地』『見仏や頼賢といった高僧が一歩も島を出ることなく修行した霊場』『俳聖・松尾芭蕉が訪ねた地』として、古来より旅情を誘うものがあったようである。
特に江戸時代以降は雄島を訪ねた旅行者(そしてその記録)は枚挙にいとまがないほどである。
現在、雄島を訪ねたならば「島内に所狭しと至る所に岩窟が掘られ、卒塔婆・仏像・五輪塔・法名等が彫られたり、安置されている情景」など『死者供養の霊場』であった様子が色濃く残されていて往時をしのぶことができる。
観応年間(1350~1352年)に松島を訪れた宗久の紀行文『都のつと』には「それよりすこしへたたりて小島あり、これなん雄島なるべし、…此国の人はかなく成にける遺骨ををさむ(納)る所なり」とあり、遺骨や遺髪を納め供養する場所であったことが知られている。
このように雄島では12世紀後半から火葬骨が埋葬される風習があり、現在でも火葬骨片が散布する場所があり、頼賢碑に隣接して死者の遺骨散髪等を納めた「骨塔」と呼ばれる石塔が現存しているなど、俗世とは隔絶された幽遠の地であったことをまざまざと実感することができる。
所在地→宮城県松島町松島浪打浜
~雄島の主な見所~
〇見佛堂跡
〇頼賢の碑
〇骨塔(骨堂)
〇松吟庵跡
〇手掘りの隧道
〇岩窟
〇芭蕉および曽良の句碑
〇御嶋真珠稲荷大明神
見佛堂跡
見佛上人が法華教六万部を読通した見佛堂の跡。
「頼賢の碑(重要文化財)」
頼賢の碑は徳治2(1307)年に頼賢の徳行を後世に伝えるために弟子30余人が雄島の南端に建てた顕彰碑で、現在は六角形の覆堂に納められている。
碑の高さは3.35m、幅は1.13m、厚さは21cmで、その板状の粘板岩(稲井石)の表面を上下に区画し、碑の周囲には雷文と唐草文、上欄と下欄の間には、双竜の陽刻を配している。
石碑の上欄中央には胎蔵界大日如来種子(阿)が刻まれ、その右には「奥州御島妙覚庵」、左に「頼賢庵主行實銘井」と楷書で記してある。
下欄は18行643字の碑文が草書で刻まれている。
碑文は、松島の歴史を物語るだけでなく、鎌倉建長寺の10世で、中国元からの渡来僧の一山一寧の撰ならびに書になる草書の碑としても有名で奥州三古碑の一つとされている。
「骨塔(骨堂)」
骨塔(骨堂)は頼賢碑に隣接して建っている。
骨塔(骨堂)は慶安3(1650)年に瑞巌寺の洞水東初が造立し、宝暦6(1756)年に六代藩主・伊達宗村の側室性善院が現在の場所に移したとされる。
骨塔(骨堂)には遺骨を納めるための穴が開いている。
かつてはこの穴から幾多の遺骨散髪が納められたのだろう。
この骨塔(骨堂)こそが、長年に渡り、遺骨や遺髪が納められ『死者供養の霊場』であった「雄島」を象徴する遺構だと思われる。
松吟庵跡
雄島中央部東側にあったもので、寛文2(1662)年、瑞巌寺百世洞水東初が水主頭鈴木氏に命じて雄島妙覚庵の休址に建立させたものであるという。
岩窟
芭蕉および曽良の句碑
御嶋真珠稲荷大明神
江戸の便船が暴風に巻き込まれた際、以前助けた白狐に救われたという逸話から、海難防止の守り神とされる。
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