古代祭祀遺跡?神社遺構として他に類例のない『磐境神明神社』




古代祭祀遺跡?神社遺構として他に類例の見あたらない『磐境神明神社』

磐境神明神社は神社遺構としては全国的にも他に類例の見あたらない非常に特殊な形態の神社である。

この神明神社は白人神社の奥社(古社床 )であるとされていて白人神社から約100m西南にある130段の石段を登った先の丘陵上にある。

社地はシイ・マツ・カシなど密生していて「神明はん」とか「神明の森」と呼ばれているとのことである。

しかしながら、一般的に神社と言われて想像する社殿などは一切なく、代わりに南北約7m、東西約22mの範囲を石垣で長方形状に囲まれた異形の祠がある。

この石垣で囲まれた空間は古くから記紀の神代記にいう「磐境(古代祭祀遺跡)」の類ではないかと推定されているそうであるが、いずれにしても異様、異形である。

石垣は幅1.5~2.0m、高さ1.2~1.8mで、南側が正面となっていて三箇所の入口がある。

南側の石垣は入口部分が幅約1.5mぐらいずつ切れていて、入口の上には、板石が架けられていて門状になっている。

石垣内に入ると奥の石垣の前に小祠が五座配置せられている。

祭神は国常立神他四神が祀られ、宮人の先祖たちによって奉斎が営まれてきたという。

この神明神社についての文献記録での初見は、安永8(1779)年の「白人大明神由来書」で、これによると、白人神社より約1町(109m)ばかり上の段にある奥社とされる神明山という所で、寛保年間(1741~1743)に芝刈りの際に長さ八間余(約15m)、横幅四間余(約7.5m)、東西に二ヶ所の入口、内側は長さ六間(約11m)、幅一間(約1.8m)の石垣が発見されたとある。

なお、「白人大明神由来書」の記述は現状の姿と若干異なるため、少なくとも現在の姿となったのは江戸時代後半以降のものであるらしい。

また、昭和30年頃に財宝を捜索して大規模に掘削が行われ、特に東方では約15mほど掘り下げたといわれていて、これにより崩壊寸前になったため、昭和57(1982)年一部修復がされているという。

しかしながら、寛保年間に発見されるまで芝に埋もれていたというこの摩訶不思議な遺構の築造年代の詳細は謎に包まれており、古代祭祀遺跡という説以外にも瓊瓊杵尊の神陵跡、超古代文明の遺構といった説やイスラエルの神殿とよく似た造りで古代ユダヤとの繋がりを示すものとの説もある。

いずれにしても、神社遺構としては全国的に見ても他に類例の見当たらない非常に珍しく特殊で独特な形態であることから、貴重な遺構であることは間違いなく、知的好奇心を激しく揺さぶられるなど、大変興味深いものがある。

所在地→徳島県美馬市穴吹町口山宮内138

 

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