長禄の変




長禄の変

長禄の変とは禁闕の変で後南朝に奪い去られた三種の神器の一つである神璽を奪還するために赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である一宮と二宮(川上村の伝承では自天王と後南朝の征夷大将軍である忠義王と伝わる)の兄弟を騙し討って、神璽を強奪しようとした事件である。

これは嘉吉の乱により主家である赤松家が取り潰されたために浪人となって困窮し、苦境に陥っていた赤松氏の遺臣が「後南朝一党を討ち果たし神璽を取り返し奉る」ことを条件に赤松家を再興させることを幕府・朝廷との間に約束を取り交わした上で行われたものである。

「赤松記」によると後南朝一党を攻略する手段として「赤松氏牢人はどこにも仕えるところがなく、これ以上辛抱することもできないので、吉野殿(後南朝)を頼り吉野へ参上することとした。赤松氏牢人が一味して都を攻め落とし、ぜひ御供したい」と申し入れ後南朝に接近したという。

長禄の変のことを書き残した上月文書の中にある南方御退治条々によると赤松氏の遺臣が吉野へ向かったのは康正2(1456)年12月20日のことでその数は30人であったという。しかしながらすぐに攻撃というわけにはいかなかった。神璽のありかを調べる必要もあった。また、一宮・二宮に近付くだけでも相当な苦労があったはずである。赤松の遺臣は南方宮に取り入り隙をうかがいつつ、情報の収集につとめた。

そして一年後の長禄元(1457)年12月2日の子の刻(午前零時頃)についに一宮と二宮を襲撃した。二手に別れた赤松遺臣は丹生谷帯刀左衛門、同四郎左衛門兄弟が北山に忍び込むと兄の帯刀が一宮の首を討ち取り、神璽を強奪したものの、この動きを察知した吉野の郷民によって反撃され伯母谷というところで丹生谷兄弟は討ち取られ一宮の首と神璽は奪い返されてしまった。また、ほぼ同じ頃に河野郷においては赤松遺臣により二宮の首も討ち取られたが、やはり二宮の首についても吉野の郷民の反撃によって奪い返されたという。

結局のところ、この12月2日の襲撃では両宮(一宮・二宮)の殺害には成功し、一旦は神璽の強奪をしたものの吉野の郷民の反撃により神璽は奪い返されてしまったのである。

その後、最終的に赤松遺臣が神璽を奪還したのは長禄2(1458)年の3月末で「南帝母儀在所」に小川弘光が乱入してついに神璽盗み取ったとされている。(この神璽奪還については謀略が用いられたのか「小寺兵衛入道、不思儀の了見をめぐらし、重ねて神金玉(璽)取り返し奉る」「種々調略をめぐらし、重ねて執り返し奉る」「悪党を入れ盗み取りおわんぬ」「京都より色々御計略の処」などと書き残されている。)

いずれにしてもこうして奪還された神璽は同年8月30日に実に15年ぶりに入洛したのである。

つまり長禄の変とは非常に分かりにくいのであるが「一日の出来事」や「一連の出来事が連続して立て続けに起こった」ものとしてとらえるのではなく『長禄元(1457)年12月2日に赤松遺臣が南朝の皇胤である吉野奥北山の一宮と同河野郷の二宮を殺害したものの、神璽の強奪には失敗した』という前段部分と『長禄2(1458)年の3月末に「南帝母儀在所」に小川弘光が乱入して神璽盗み取った』という後段部分の二つの出来事を組み合わせてはじめてその全体の流れが把握できるものであると言えるのである。

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