西陣南帝
旧南朝皇胤が最期の光を放ったのは1392年の南北朝合一から実に79年後の応仁の乱に際してのことだった。
細川勝元率いる東軍が天皇及び将軍という公武の最高の権威である後土御門天皇・足利義政を自軍に引き込むことに成功すると、将軍の弟である足利義視を擁している山名宗全率いる西軍が東軍の天皇・将軍の権威に対抗するために南朝皇胤を擁立したのである。
この時期の南朝皇胤の動向としては、まず文明元(1469)年11月に南方蜂起が伝えられた。
それによると、その者たちは兄弟で蜂起の場所は吉野奥と熊野であり、十方に宣言し年号を明応元年としているというものであった。
その実態については不明であるが、年号を定めたとの情報も入っていることもあり、これまでにない実態を備えた蜂起であった可能性が高い。
続いて文明2(1470)年2月末に南朝皇胤は紀伊国有田郡の宇恵左衛門という者のところで旗上し、翌3月8日には同国海草郡藤白に移り、郡のものはほとんど味方し、隆盛を誇っていると伝えられている。
さらに3月下旬には大和国に入り、南方の旗が越智郷をのぼり、橘寺の辺りを通過したとの情報が伝えられている。
同年5月になると西軍の大名たちがこの南朝皇胤を禁裏に迎え入れようとしているとの風聞が立っている。むろん、東軍の擁する天皇(後土御門)・上皇(後花園)に対抗するためである。
これについて興福寺大乗院の尋尊は「事実たらば、尚々公家滅亡の基か」と述べている。
このとき、西軍の大名の中で畠山義就だけは紀伊・河内の所領が南朝皇胤の所領と重なるので難色を示していた。
しかし、翌6月に義就は諸大名や足利義視に説得されて、異議をひっこめ同心している。
そしてついに文明3(1471)年8月26日に「かの南朝皇胤」が西軍諸将の要請をうけて入洛し、北野松梅院に入った。
こうして旧南朝の皇胤は「南帝」「新主」として西軍に擁立された。
後醍醐天皇の血を引く「南帝」にとって最も晴れやかな時期であったに違いない。
ではこの西軍が擁立した「南帝」とは一体誰であろうか?
この点については「大乗院寺社雑事記」によると「西方新主は小倉宮御息、十八歳に成り給ふ」「小倉宮御末、岡崎前門主御息かと云々、法躰の御事なりと云々」と記されている。
つまり、西軍に擁立された南朝皇胤は小倉宮の末裔で、岡崎前門主の子息ですでに法体かと述べている。
もしこれを信用するならば嘉吉3(1443)年5月に没した小倉宮聖承の末裔がまだ残っていたことになるが、この時期の南朝皇胤の常として実名は不明である。
(川上村史では旧南朝皇胤の蜂起の際に小倉宮を冠しているケースが多いので、小倉宮流が最後まで後南朝を支えていたように思われているが、実はそうではなく、幾つかの流れがあったはずであり、小倉宮を冠させたのは、当初小倉宮が南朝復興のために精力的な活動をして著名であったために世人が皇胤すべてを小倉宮流としたのであるとして、西軍が擁立した南帝は小倉宮流ではないとしている)
こうして擁立された「西軍南帝」であったが、2年後の文明5(1473)年3月18日に西軍の大将で「南帝」を支えていた山名持豊(宗全)が死去し、東西両軍の和議が成立すると、あっという間に西軍から空しく消え去り「南帝」のその後についてはまったく伝えられていない。
もはや利用価値のなくなった南朝皇胤は哀れにも捨て去られてしまったとみてよいだろう。
この後は「晴富宿禰記」の文明11(1479)年7月19日の記事により「小倉宮ノ王子、越後ヨリ越前二到ラセラル」との消息がわずかに知ることができるのみである。
このように現在の時点では史料によって後南朝の足跡をたどれるのは文明11年までということになる。
以後、南北抗争の意識はあらゆる意味で薄らぎ、かくして後南朝の争乱は南北朝合一から約90年にして完全に終息したと言えるのである。
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