南方一流は断絶さるべし(南朝皇胤断絶策)




南方一流は断絶さるべし(南朝皇胤断絶策)

南北朝合一後、幕府の南朝皇胤に対する基本政策は『最終的には後醍醐天皇の血を引く南朝皇胤の宮家はすべて断絶させる』というものであった。

しかしながら、将軍の代により強硬と穏健との差があり、一様ではない。

平時において最もとられた策は『出家』を奨励するというものであり、足利義持の代では、応永16(1409)年に後村上天皇の孫・成仁を地蔵院に入室(東寺執行日記)させたり、応永30(1423)年に南方宮福御所御子を義持の計らいにより寺院に入室(看聞日記)させたりと、概ね穏健な対応だった。

また、足利義教についても、将軍就任当初の永享2(1430)年には小倉宮・教尊を勧修寺に入室させるなど、穏健な対応をしていたが、永享6(1434)年になると一転して強硬策へと舵を切った。

『看聞日記』永享6年8月20日、9月18日の各条には、以下のような記事がみえる。

「そもそも聞く、南方聖護院両人、喝食に成し申さる。御遺跡を置かるべからずと云々。奉公殿上人等少々禁裏召し仕はるべきの由、日野をもって内裏へ申さると云々。およそ南方御一流、今においては断絶さるべしと云々。喝食は常徳院主海門和尚、鹿苑院主等弟子に成し申さると云々。(8月20日条)」

「そもそも聞く、護聖院奉公殿上人八人、禁裏奉公すべしの由仰さる。御遺跡は断絶、御領は御喝食両人に割分。相残る分殿上人五人懸命の地に給ふ。因幡国衙は三条に遣はさると云々。この国衙は崇光院御管領の分国なり。旧領いよいよ他物たるの条、無念なり。(9月18日条)」

ともに護聖院宮についての記事であり、内容の骨子は、護聖院宮流の二人の王子を喝食とし、宮家は断絶させ、奉公人は朝廷で召し使うことにする(家来の召し上げ)ということが書かれている。

特に注目されるのは「およそ南方御一流、今においては断絶さるべしと云々」の個所で、足利義教がこの時点で『後醍醐天皇の血を引く南朝皇胤はすべて根絶やしにする』という強硬な断絶策を打ち出した証拠となる史料であり、南朝皇胤の立場は大変厳しい状況となったということが窺えるものである。

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