南朝は一体どのようにして滅びたのか?(小倉宮教尊の墓)




南朝は一体どのようにして滅びたのか?(小倉宮教尊の墓)

所在地→島根県知夫村郡(松養寺)

明徳3(1392)年の南北朝合一により南朝が滅亡したわけではない。実は南北朝合一後も南朝の系譜をひく皇胤とそれを擁した旧南朝勢力により断続的に再三「皇位奪還運動」が繰り返された。

これは南北朝合一の際の条件をことごとく踏みにじられ、特に最重要条件であった「皇位の継承は、旧南北双方より相代(あいがわり)で行う」という皇位の両統迭立が履行されなかったことに対する旧南朝勢力による皇位奪還を目指した反幕活動であったが、室町幕府および北朝は合体の際の条件を履行する気など最初からなく、旧南朝方の蜂起は天皇家に対する謀反として容赦なく鎮圧された。

南北朝合一後に後醍醐流の正嫡と目された小倉宮聖承は北畠満雅が南朝勢力として反幕の兵を挙げた際にも、称光天皇のあとに子息である教尊を皇位につけようとする企てを画策したという。しかしながら北畠満雅が敗死すると聖承は皇位回復を断念したのか、教尊を将軍・足利義教の猶子として得度させ、真言宗勧修寺門跡に入室させた。

では「後醍醐天皇の末裔である教尊」は最後は一体どうなったのか?実は教尊は嘉吉3(1443)年9月に起こったいわゆる禁闕の変との関係を疑われ翌月には幕府によって捕えられ、くしくも後醍醐天皇と同じく隠岐島へと流罪となり、この地で没したという。

 

ここに南朝再興の夢は事実上、完全に絶たれたといってよいだろう。私が全国各地の南北朝時代の史跡を15年くらい掛けて訪ね歩いた集大成として一番最後に訪ねたのが、この隠岐の知夫里島にある教尊の墓だった。本当に何もない閑散とした寂しいところで、こうして南朝は終焉したのかと感慨深く・感極まるものがあった。

※後醍醐天皇から教尊までの系図

後醍醐天皇-後村上天皇-後亀山天皇-小倉宮恒敦-小倉宮聖承-教尊

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です