一度入ったら二度と出られない、必ず祟られる『八幡の藪知らず』




一度入ったら二度と出られない、必ず祟られる『八幡の藪知らず(不知八幡森)』

八幡の藪知らず(不知八幡森)は千葉県市川市の国道14号線(千葉街道)沿いにある広さ約300坪の竹藪で、古くより禁足地として知られていたものである。

この八幡の藪知らず(不知八幡森)は江戸時代に書かれた多くの地誌や紀行文で取り上げられ「この藪余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かず。」であるとか「藪の間口漸く十間(約18m)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹藪にして、細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などさまざまの雑樹生じ・・・」などと紹介されている。

そして、一様にこの藪知らずは「入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所」として記載され「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的にも知られていた。

広辞苑にも「八幡の藪知らず」の項目があり「ここに入れば再び出ることができないとか、祟りがあるといわれる。転じて、出口のわからないこと、迷うことなどにたとえる」とあり、江戸川乱歩の「孤島の鬼」や夏目漱石の「行人」等、さまざまな小説にも、迷い込んで出られなくなることの喩えとして使われている。

尚、入っていけない理由については諸説があり、

・葛飾八幡宮を最初に勧請した神聖な旧地だから入ってはいけない。

・日本武尊が陣所とした跡だから入ってはいけない。

・貴人の古墳の跡だから入ってはいけない。

・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、平定後もここにだけ将門軍の死門(あの世への関門)の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。

・平将門が朝廷軍と戦ったとき、将門軍の鬼門に当たった場所が不知森だった。

・平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。

と、様々な説がある。

中でも万治年間(1658~1661)に水戸黄門(徳川光圀)が藪に入ったところ、白髪の老人が現れ「戒めを破って入るとは何事か、汝は貴人であるから罪は許すが、以後戒めを破ってはならぬ」と告げたといい、この話は三枚綴りの錦絵になって全国に広まったとのことである。

結局のところ「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由がいつの間にかに忘れ去られてしまったため、いろいろと取り沙汰されてきたものではないかとのことである。

また、現地の案内板によるとその理由のひとつとして「藪知らず」が「放生池」の跡地であったからではないかとも考えられているという。

それによると古代から八幡宮の行事に「放生会」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼んでいたが、藪知らずの中央が凹んでいることから、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられるとのことである。

しかしながら、中世にはこの地が千葉氏の支配下にあったが、千葉氏が内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事も途絶えてしまったため、放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことにより、以上のような話が作られてたのではないかとのことである。

また、市川市のホームページによるとこの地が行徳の入会地であり、八幡の住民はみだりに入ることが許されなかったので「八幡知らず」と言われたのが藪知らずになったのではないかとも紹介されている。

現在では、国道に面した竹藪の一画に鳥居と祠があって不知森神社として整備されて「拝所」となっていて、傍らには安政4(1857)年の春に江戸の伊勢屋宇兵衛が建てた「不知八幡森」の碑がある。

ところが「現地は人や車の往来が絶えない交通量が非常に多いところ」で、竹藪は玉垣やフェンスで中に入ることができないようにはされているが、ここが『入ったら出てこられない、入れば必ず祟りがある』禁足地とは到底思えないような、拍子抜けをしてしまうような感じとなってしまっている。

が、現地を訪ねればそれは致し方のないことで『逆にこれほどまでの大都会の中に現在までこうして禁足地が守られてきたことにこそ歴史があり、意味があるのだろう』と思えた。

所在地→千葉県市川市八幡2-8

 

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