竹崎季長とは
竹崎季長は鎌倉時代後期の武士で肥後国の住人。
菊池氏の一族とする説が有力であるが、本領の益城郡竹崎を失っていた季長は、文永11(1274)年の元寇の際には主従わずかに五騎で出陣するほどに落ちぶれていた。
この窮状を打開するべく、少弐景資の指揮のもと、一族とともに「弓箭のみちす丶むをもてしやうとす。ただ駈けよ」と叫びながら一番駆けをして沿岸の防塁で蒙古軍との激戦を戦い、この戦いで「戦功第一」と記録された。
しかしながら、いつまで待っても恩賞の知らせがなかったため、翌年鎌倉に赴いて直接幕府に訴えることとした。
一族の反対をふりきり、一門の一人の見送りもなく、恨みを抱きながら、中間二人だけを伴って馬具を売って路銀にして、目的を達せねば出家して二度と帰らぬという悲壮な覚悟で建治元(1275)年6月3日の早朝に旅立った。
8月12日に鎌倉に着き、鶴岡八幡宮に詣でると季長は翌日から幕府の奉行所に日参し、一ヶ月半ものあいだ、門前払いをくらいながらも諦めず、10月3日になってついに恩賞奉行の安達泰盛に面会することができ、自身の戦功を申し立てた。
11月1日に再び泰盛に呼び出された季長は恩賞として肥後国海東郷の地頭に任ずる下文を与えられた。
その後、弘安4(1281)年に蒙古軍が再び高麗軍とともに襲来した時にも、大友貞親・少弐資能・菊池武房らとともに敵船に乗り込み、大いに戦い、敵の首級をあげるなどの活躍をし、その上陸を防いだ。
戦功によって得た海東郷の経営に季長は一生懸命に取り組み、神仏に対する崇敬の念も深く、菩提寺となる塔福寺を建立して出家し、また、自分の経験した2度の蒙古襲来や幕府への直訴などを後世に伝えるため、『蒙古襲来絵詞』を作らせた。
この絵巻は文永・弘安の役(元寇)の様子が絵と詞書に克明に記録されていて鎌倉時代の様子を示す貴重な史料となっている。
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