蒙古襲来絵詞について




『蒙古襲来絵詞とは』

「蒙古襲来絵詞」は「竹崎季長絵詞」ともいわれ、季長が元寇(文永の役、弘安の役)に際して奮戦したありさまを自らを主人公として絵巻にしたものである。

現存しているものは前後二巻からなり、前巻は文永の役と鎌倉下向を、後巻は弘安の役を描いたもので絵画としても、史料としても貴重なものである。

『蒙古襲来絵詞の内容』

蒙古襲来絵詞は前後二巻の絵巻物で、絵と詞が交互につづく形で前巻には詞9と絵10、後巻には詞7と絵11が収められている。幅は約39cm、長さは二巻合わせると約44mにもなる。前巻では文永の役での自らの出陣と戦功の次第を書き、恩賞の沙汰がなかったので鎌倉に行き、幕府の御恩奉行である安達泰盛にそれを訴えて恩賞を賜ったこと、後巻では季長が弘安の役で奮戦して手柄を立てた様子が事細かに綴られている。

『竹崎季長が蒙古襲来絵詞を作成した理由』

①子孫に伝えるため
自身の活躍(戦功)を長く子孫に伝え残すため。

②神恩報謝のため
自身が戦功を挙げ、恩賞を貰うことができたことを甲佐大明神のご利益と考えて神徳に対する報謝のため。

③恩人の鎮魂のため
季長に恩賞の便宜を取り計らったが、霜月騒動・岩門合戦により非業の死を遂げた安達泰盛・盛宗父子や小弐景資らの恩に報いる、鎮魂・追憶のため。

※幕府に恩賞を要求するためとの説もあったが、現在では否定されている。

『蒙古襲来絵詞の成立年代』

蒙古襲来絵詞の成立年代には諸説があるが、永仁年間(1293~1298)から正安年間(1299~1301)にかけてのものと推測されている。

『蒙古襲来絵詞の絵師』

蒙古襲来絵詞の原本が宮内省に買い上げられる前に所有者だった大矢野十郎が書き記した「蒙古襲来絵巻物履歴」によれば、竹崎季長が文永・弘安の役における自身の働きと見聞したことを大和絵の絵師、土佐長隆・長章父子に画かせたとあるが確証はない。一説には肥後在住の田舎絵師の手になるものともされる。また、この絵詞がどこ(京都?大宰府?肥後?)で作成されたのかについても一切が不明である。

『蒙古襲来絵詞の史料的価値』

蒙古襲来絵詞は竹崎季長の活躍を季長自身が語り、それを絵師に画かせた記録である。実際に文永の役・弘安の役に参戦した当事者である季長の「働きの景況」及び「目撃したる所の現状」を記録させたもので、しかも絵画である。このため、蒙古襲来絵詞はきわめて写実的に描かれているので、戦いの様子だけではなく、日本軍・蒙古軍の装備・戦法・武器・蒙古人と高麗人の違い、元寇防塁などの様子を細部にわたって具体的に知ることができる。また、季長が恩賞を求めて鎌倉に赴く場面や負傷した河野通有を見舞う場面などでは武士の館の構造、武士の服装などが描かれていて、その風俗や描写の表現には鎌倉時代の特色が表れている。歴史的事実の視覚的史料としても貴重な作品である。

『蒙古襲来絵詞はどのような過程で現在まで伝来してきたのか』

蒙古襲来絵詞は正副二本が作られ、一本は季長の子孫に残され、もう一本は甲佐神社に奉納されたと考えられている。

竹崎家の衰退後は宇土城主・名和顕孝に伝わり、さらに顕孝の娘が天草の大矢野城主・大矢野種基に嫁ぐ際に大矢野氏の祖先が元寇に出陣していることから引き出物として大矢野家にもたらされた。(このように所有者が代わる過程で当初、正副二本あったものが一本にまとめられたと考えられているそうである。)

その後、大矢野家は加藤清正に仕え、加藤家没落後は細川家に仕えた。文政8(1825)年になると、大矢野家は絵巻が散逸するのをおそれて細川家に保管を依頼したが、明治2(1869)年の廃藩の時に大矢野家に返還された。

そして明治23(1890)年の12月に大矢野家の当主である大矢野十郎が上京して、蒙古襲来絵詞を宮内庁に献納(御買上げ)して「御物」となり、現在では「三の丸尚蔵館」に保管されている。

『蒙古襲来絵詞の保存状況』

現存している蒙古襲来絵詞は欠失してすでに失われている部分や、配列に錯簡がある部分がある。また、後世の描き込みや書きかえがあるとも言われている。今日二巻本として成巻されているものは、それまでに部分的に失われ、しかも分散状態にあったものを大矢野五郎左右衛門から肥後細川藩に保存を依頼された際に官費をもって寛政9年に修復がなされ、その後、新たに大矢野家で「詞二・絵二」が発見され、再度肥後細川藩の官費をもって文政11年に再び修復がなされ現状に整理されて現在まで伝えられてきたものである。

『蒙古襲来絵詞の模本』

蒙古襲来絵詞は江戸時代中~後期にかけて江戸でも有名になった。蒙古襲来絵詞が世に知られるに至ったのは、新井白石の本朝軍器考が文献的な初出とみられている。次いで寛政5(1793)年に熊本藩主細川斉茲によって江戸に持参され、尾張の徳川治行、白川藩主・松平定信らによって模本が制作された。以後、数多くの模本が作られ、現在では30本以上の模本が知られ、原本研究などの好資料となっている。

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