河野通有の墓




河野通有の墓

河野通有は源平合戦で有名な河野通信の孫であるが、当時の河野氏は通信が承久の乱で上皇方に加担したため所領所職の大半を失っており、通信の子である通久が河野一族の中で唯一鎌倉方についたことによりかろうじて命脈を保っている状態だった。

通有は没落した家名をなんとかして挽回したいと思っていたが、文永の役に参陣することができなかった。

その後、鎌倉幕府により蒙古の再襲来にそなえて博多湾沿岸の防備をするようにとの命令が下されると、これを河野氏の失地回復の好機と考えた通有は奮い立ち、九州へ旅立つ前に氏神である大三島の大山祇神社に参詣し「十年のうちに蒙古寄せ来たらずば異国へ渡りて合戦すべし」と自分の並々ならぬ決意を記した起請文を十枚書いて灰にして飲み戦勝祈願を行ったとされている。

弘安の役では元軍が博多湾に迫ると、わが国の諸将は防塁によって元軍の上陸を阻止しようとしたが、通有は反対に防塁を背にして前の浜辺に陣取り、決死の覚悟で波打ち際で敵を殲滅しようとした。その豪胆ぶりは「河野の後築地」と讃えられ日本軍の意気高揚につながったという。

さらに志賀島の戦いでも叔父通時、子の通忠らと共に二艘の小舟で元船に夜襲をかけ敵将を捕らえるなど不朽の武勲を残した。(この戦いで通有は負傷し、叔父通時は戦死を遂げた)

蒙古襲来絵詞には竹崎季長の見舞いを受けた通有が曽祖父通信の直垂を身にまとい、合戦の決着を遂げないうちは烏帽子を着けないと覚悟のほどを語ったことが記されている。

これらの戦功により通有は旧領を回復し、肥前国神崎荘内小崎郷ほか、肥後国下冬村、山崎荘など九州にも恩賞地を得て河野の家名を挙げた。

帰国後は通時ら戦死者の霊を弔うために長福寺を建立、応長元(1311)年7月14日に死去した。

墓所は長福寺にある。

所在地→愛媛県西条市北条655(長福寺)

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