何と!かつて日本の中心は青森県にあった!?それを裏付ける謎に満ちた『日本中央の碑(壺の碑)』とは?
日本中央の碑は昭和24年6月21日に青森県東北町の石文集落近くの赤川上流で発見された「日本中央」の四文字が刻まれた高さ約1、5mの石である。
発掘当初から平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂が文字を刻んだとされる幻の「壺の碑(つぼのいしぶみ)」ではないかと一大センセーショナルとなり話題を集めたものである。
尚、古歌に詠まれた名所を歌枕と言うが、数ある歌枕の中で「壺の碑(つぼのいしぶみ)」ほど好事家の話題にのぼったものはない。
この壺の碑(つぼのいしぶみ)を初めて詳説したのは平安末期から鎌倉初期の歌学者・藤原顕昭で著書・袖中抄の中で「顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよし書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり。其所をつぼと云也。(はるか日本の果てに坂上田村麻呂が蝦夷討伐をした際に弓の筈(はず)で石の面に日本の中央と刻んだ碑がある。その土地の名はつぼという)」と紹介している。
但し、坂上田村麻呂の陸奥下向は志波城(岩手県盛岡市)までであってそれより北には及んでいない。このことから田村麻呂に続いて征夷将軍となった文室綿麻呂が都母村まで進撃していることを田村麻呂の業績と取り違えて伝説化されたものであるとも言われている。
しかしながら、その所在は長い間不明であったが、江戸時代になるとその所在についての議論がにわかに活発なものとなった。そのきっかけは江戸時代初期に多賀城跡から出土した石碑(いわゆる多賀城碑)が仙台藩によって「壺の碑(つぼのいしぶみ)」とみなされ、世に紹介されたからである。
これは当時の文人墨客の好奇心を大いに刺激し、元禄2(1689)年に松尾芭蕉がこの碑の前に立ち「泪も落るばかり也」とその感動を奥の細道に書き残したり、水戸藩の徳川光圀も伊達綱村に依頼してこの碑の拓本を送らせたりもしている。
一方、南部領七戸村(現東北町)に「坪」「石文」などの地名があることなどから「壺の碑(つぼのいしぶみ)」が伊達領にあるのはつじつまが合わないとするものもいた。「吾妻むかし話」の松井道圓や「東奥紀行」の長久保赤水らがそれである。
のちに古川古松軒や橘南谿や菅江真澄などがその影響を受け、北国紀行に際してこの地に至り所在を訪ね歩いたが、その所在は分からずじまいだった。
さらに明治9(1876)年には東北巡幸中の明治天皇が宮内省を通じて青森県に「壺の碑(つぼのいしぶみ)」を探させたが、発見できなかったという逸話も残っている。
いずれにしてもこの日本中央の碑は発掘以来伝説の「壺の碑(つぼのいしぶみ)」ではないかとされ、その真贋を巡っては議論が百出、真贋論争が巻き起こったが未だに結論が出ていない。
また、本州の北の外れが「日本中央」というのはおかしい。そもそも日本中央とは何か、日本は何と読むのかが議論の的となった。「にほん(にっぽん)」なのか「やまと」なのか「ひのもと」なのか・・・。
そんな疑問に対し「七戸町史」では日本(ひのもと)とは日出ずる意味で東方を指し、平安時代から東北地方は「ひのもと」と呼ばれ、朝廷の中心だった大和と区別され、豊臣秀吉も書簡にこの言葉を使ったことが知られるなど中央政権の側でも東国を「ひのもと」と呼ぶ例が多いとしている。
つまり「日本中央」の「日本」は日本国のことではなく「ひのもと」と訓じて東北地方を指す言葉であったと思われるという。(前述の藤原顕昭も袖中抄の中で「みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云はば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ(みちの国は東の果てだが、えぞに島々あること考えれば日本の中央といってもいい)」と述べている。)
現在「日本中央の碑」は「日本中央の碑歴史公園」の中の「日本中央の碑保存館」にて展示保管されている。
所在地→青森県東北町字家ノ下タ39-5
現地には大きく目立つ看板とだだっ広い駐車スペースがあり、日本中央の碑が発見された場所には丸印のところから入っていく。
階段を降りると少し広いスペースに看板が立っている。
ここからさらに進んでまた階段を降りる。
階段を降り切った谷底の湿地帯に日本中央の碑と書かれた木碑が立っている。
どうやらここで日本中央の碑が発見されたようだ。
日本中央の碑の木碑のあるところから後ろを振り返ってみた。いかに深い谷底であるのかがわかる。こんなところからなぜ発見されたのだろうか?と思わんでもない。
所在地→青森県東北町夫雑原
~おまけ~
日本中央の碑保存館にある看板
日本中央の碑の発見地にある看板
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