相良頼俊の墓




相良頼俊の墓(願成寺)

相良氏の第三代当主・相良頼俊の墓。

頼俊は長頼の三男で寛元4(1246)年に父・長頼から肥後人吉荘内の所領を譲られ、さらに建長6(1254)年には兄・頼親の跡を継ぎ相良家の第三代当主となった。

その後、相良一族は文永の役後に鎌倉幕府の命により蒙古軍の再度の襲来に備えて、異国警固番役に勤仕した。

弘安4(1281)年に蒙古が再来して弘安の役が始まると、頼俊は自ら兵を率いて博多に赴き、弟の相良頼員と共に菊池武房に従って奮戦し、閏7月1日の暴風雨により五龍山に避難した蒙古軍を菊池武房らと共に捕虜として、博多浦で斬るという戦功を挙げた。

これによって頼俊と頼員は、北条宣時と北条貞時の名を以て関東御教書が出され激賞されたという。

所在地→熊本県人吉市願成寺町956(願成寺)

蒙古軍撃退の立役者たちの墓を訪ねるのトップページへ

蒙古軍撃退の立役者たちの墓を訪ねる(元寇・文永の役・弘安の役)

元寇防塁のトップページへ

元寇防塁を訪ねる

元寇(蒙古襲来)の史跡マップ(地図)

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします




1 個のコメント

  • 相良家は、我が家の御先祖様に、従ってこんなに戦功をあげたんですね。戦国時代も活躍された、すごい家柄ですよね。

    我が家も蒙古襲来で戦功をあげて、帝よりの御言葉もあり、西郷隆盛公とも同じ先祖の菊池家の菊池有隆公が家名を改名して今に至ります。
    なかなか熊本に帰れず、ご先祖の地などを訪ねられず、機会あれば菊池有隆公より改名した赤星有隆公の菊池市赤星にある館跡やお墓、その後の代々の史跡もアップ頂けたら、亡き祖父母も知りたがっていたので嬉しく思います。

    是非、リクエストさせてください。
    よろしくお願いいたします。

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

    このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください