河野通時の墓




河野通時の墓

河野通時の墓。通時は河野通信の子で通久・通継の弟。

本領の伊予国久米郡石井郷をめぐって兄・通継とその子・通有と相論を起こした。(この時は通継を惣領とし、通時には一部を分与することで和与が成った)

弘安4(1281)年の蒙古襲来の際には甥の通有とともに伊予の水軍を率いて博多湾に出陣。

6月6日から7日にかけての志賀島の戦いで蒙古の軍船に小舟で奇襲をかけ軍功を立てるが、負傷のため舟中で没した。

現在通時の墓は屋根付きのお堂の中に祀られている。

向かって左手の墓は通時の娘の墓とされる。

所在地→愛媛県松山市道後姫塚114(義安寺)

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