平景隆の墓
平景隆の墓。景隆は壱岐の守護代で文永の役(蒙古襲来・元寇)で、対馬を発した元軍が文永11(1274)年10月14日申刻(午後4時頃)に壱岐の西面に姿を現したとの島民の注進があるとすぐさまに一族郎党100余騎の手勢を率いて元軍を迎え撃ち各地で戦ったが、庄の三郎ヶ城(樋詰城)の前の唐人原で大敗し、庄の三郎ヶ城(樋詰城)に退き、最後の抵抗を試みるが衆寡敵せず、翌15日には全滅し、景隆は自刃して果てたという。
八幡愚童記によると「十四日申刻、壱岐島の西面に蒙古の舟つく。その中の二艘から四百人ばかりの軍勢が降りてきて、赤幡をさして東を三度、敵(沖)を三度おがんだ。
その時壱岐守護代の平景隆並びに御家人等百余騎が庄の三郎ヶ城(樋詰城)の前で敵軍と矢合わせをした。
蒙古の矢は二町ばかり射る間、守護代方に二人の手負いが出て合戦となったが、多勢の敵軍にはかなうべくもなく、城内で全員自害した」とある。
最期にあたり、景隆は郎党の宗三郎に大宰府へ急を知らせるように厳命し、蒙古襲来の報を18日に注進したという。
現在、この樋詰城跡には新城神社が鎮座し、境内には景隆の墓がある。
所在地→壱岐市勝本町新城東触441
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