宗下野次郎の墓(その1)




宗下野次郎の墓(その1)

宗下野次郎盛忠(盛維)の墓。宗氏家譜には文永の役で討死した将士の名が三十余名列記されていて、その中に宗を名乗る一族が十名いる。

元軍の軍船は九百艘とされ、対馬には全島が襲撃されたとの伝承があり、宗助(資)国の兄弟で佐護郡司だった下野次郎は文永の役から退却する帰途、略奪のために西泊湾に侵攻してきた蒙古軍を次男・上総介と共に南護志浦で迎え撃って討死したと伝えられている。

尚、菩提寺である崇福寺跡には道翁の平と呼ばれるところがあり、下野次郎父子のものとされる宝篋印塔・五輪塔があったが、現在ではこの下野次郎父子の墓は、下野次郎の後裔とされる比田勝家の墓所に移設されている。

また、比田勝の国道沿いにも近年になって建てられた下野次郎の墓がある。

所在地→長崎県対馬市上対馬町比田勝

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