宗助国(資国)の手足塚




宗助国(資国)の手足塚

宗助国(資国)は宗家初代・重尚の末弟で重尚から襲封云々とあるが確証はない。

一方、他の確実な史料における宗氏の初見で、対馬守護・地頭である少弐氏の守護代、地頭代を勤めていたことが知られる最初の人物でもある。

文永の役(蒙古襲来・元寇)で、文永11(1274)年10月5日申刻(午後4時頃)に3万人の元・高麗の連合軍が450艘で対馬西岸の佐須浦沖に姿を現したとの島民の注進があると、助国はすぐさまに一族郎党80余騎を率いて、その夜のうちに佐須浦へ向かった。

翌6日丑刻(午前2時頃)に佐須浦に到着した助国は、夜明けの卯刻(午前6時頃)を待って通辞(朝鮮語を話せる通訳)の真継男を使者として蒙古軍にことの子細を尋ねさせようとしたが、いきなり船上より散々に矢を射かけられ、さらに約1000人の軍勢が上陸、合戦となった。

宗氏家譜によると「助国矢を発し、賊を射て数十人を倒す。是において賊兵競い進み、陸に下る。助国先駆けて衆を励まし、蒙漢の兵を撃つ。州兵力尽きるまで奮戦し、斬獲甚だ衆しといえども、辰の刻に至り、終に大きく破られ、助国また命を堕す」とある。

勝ちに乗じた元軍により佐須浦の人家に火がかけられ焼き払われると助国は郎党の小太郎兵衛次郎を呼び寄せ「戦場から脱出して事の次第を大宰府へ告げよ」と命じた。

こうして助国以下、一族郎党全員が衆寡敵せず討ち死にをしたが、この死は決して無駄ではなかった。助国の壮烈な死と引き換えに対馬における宗氏支配が確立し、のちの対馬藩十万石の礎を築いたといえる。

尚、下原の観音堂には首塚が、樫根の法清寺には胴塚が、同じく樫根の銀山神社には太刀塚がある。

所在地→長崎県対馬市厳原町下原(若獅子神社)

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