竹崎季長の墓(蒙古襲来絵詞の作者)
竹崎季長の墓。季長は鎌倉時代後期の武士で肥後国の住人。
菊池氏の一族とする説が有力であるが、本領の益城郡竹崎を失っていた季長は、文永11(1274)年の元寇の際に、少弐景資の指揮のもと、一族とともに「弓箭のみちす丶むをもてしやうとす。ただ駈けよ」と叫びながら一番駆けをして沿岸の防塁で蒙古軍との激戦を戦い、この戦いで「戦功第一」と記録された。
しかしながら、いつまで待っても恩賞の知らせが来なかったため、翌年鎌倉に赴き、御恩奉行の安達泰盛に直訴して益城郡海東郷の地頭職を得た。
弘安4(1281)年に蒙古軍が再び高麗軍とともに襲来したときには、大友貞親・少弐資能・菊池武房らとともに敵船に乗り込み、大いに戦い、敵の首級をあげるなどの活躍をし、その上陸を防いだ。
戦功によって得た海東郷の経営に季長は一生懸命に取り組み、神仏に対する崇敬の念も深く、菩提寺となる塔福寺を建立して出家し、また、自分の経験した2度の蒙古襲来や幕府への直訴などを後世に伝えるため、『蒙古襲来絵詞』を作らせた。
この絵巻は文永・弘安の役(元寇)の様子が絵と詞書に克明に記録されていて鎌倉時代の様子を示す貴重な史料となっている。
所在地→熊本県宇城市小川町北海東
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