島津家第三代当主・島津久経の墓(感応寺五廟社)




島津久経の墓(感応寺五廟社)

感応寺の五廟社(島津家初代忠久より五代貞久の墓所)にある島津家第三代当主・久経の墓。(真ん中が久経の墓)

久経の父は忠時、母は伊達判官入道念性の娘。文永2(1265)年に父から家督を譲られ鎌倉に赴き、有力御家人の一人として昼番衆などに選ばれた。

蒙古襲来(文永の役)後の建治元(1275)年から鎌倉幕府の命により九州に下向。筑前筥崎で元軍の再襲来にそなえる。

弘安4(1281)年の蒙古襲来に際しては薩摩の御家人を率いて壱岐に渡り奮戦するなど大いに活躍して武功を挙げた。

その模様は竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」に描かれている。(蒙古襲来絵詞にみえる久親が久経とみられている。)

その後、弘安7(1284)年閏4月21日筥崎で没し、跡を子の忠宗が継いだ。

尚、久経の墓とされるものは鹿児島市の本立寺跡にもある。

所在地→鹿児島県出水市野田町下名5735(感応寺五廟社)

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