少弐景資の墓
少弐景資の墓。
景資は少弐資能の三男で少弐経資の弟。
元寇の役では日本軍の中心人物として最前線の指揮者として奮戦したことで知られ、文永の役では、日本の総大将として筥崎に陣取り上陸してきた元軍を迎え撃ち、蒙古の副元帥・劉復亨(流将公)を矢で射止める大功を挙げた。
弘安の役では、閏7月1日の暴風雨により元の船団のほとんどが沈没し、残兵5千人が鷹島に上陸したとの急報に博多から駆けつけ、約1週間にわたる掃討戦の末、元軍を殲滅させた。
しかしながら弘安8(1285)年、鎌倉で「霜月騒動」が起こるとその余波を受け兄・経資に岩門城を攻められ、弘安の役からわずか4年後に岩門城で非業の死を遂げた。
所在地→福岡県那珂川町山田
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