​一之宮成立の謎




一之宮成立の謎

実は一之宮は 『いつ、誰が、何のために、どのようにして』 成立させたかについては一切が不明で謎に包まれている。

その理由として一之宮は、法律や制度で決められたものではないため、国分寺などのようにその成立の事情を明かす朝廷側の資料が存在しないことがあげられる。このため各神社の古文書や史書の中の断片的な記述といった状況証拠から推測するしかないのである。

江戸時代後期の国学者の伴信友は「一宮の事」と題する文章で次のように書いている。

「そもそも一宮と称す神社を定られたる事は、正しき古書どもに見えず、何の御世何なる由にて定られしにか詳ならず、今つらつら推考るに、延喜の神名式定られたる後の御世に、諸国の神社へ、神祇官或は国守などより、移送布告すべき事などの状によりては、予て各国に一社を定め置て、まづ其社司に告知せ、その社司奉り専当して、国内の諸社司に伝達せさせ、又諸社司より申す事をも執達せさする為に、そのかみの神社の在かたにつけて、便宜にまかせ、或は時勢によりなどして、定められたる新式なりしなるべし」

つまり神社に伝達する事項がある時、それを伝えて行く順番の筆頭に位置するのが一之宮になったということである。したがって必ずしも最も尊い神社ということではなかったのだが、時代が下るにつれて神事も衰退して、特に一之宮の担当する仕事もなくなり 「遂にただその称のみ遺りて、何の由とも無く、重き社がらのごとくなり来しものにぞあるべき」というのが伴信友の推論である。

このように、従来一之宮制の成立については、伴が推論したように神祇官や国司が国内諸社に布告をする場合の便を図るためとか、国司巡拝に際し、代表的な神社を参拝するために便宜上定められたなどの説が出されていたが、このような従来の説については現在では否定的に考えられるようになってきているともいう。

つまり一之宮制度の起源についてはやはり一切が不明で謎に包まれているとしか言いようがないというのが現状であるといえるだろう。

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