蒙古襲来絵詞はどのような過程で現在まで伝来してきたのか




蒙古襲来絵詞はどのような過程で現在まで伝来してきたのか

蒙古襲来絵詞は正副二本が作られ、一本は季長の子孫に残され、もう一本は甲佐神社に奉納されたと考えられている。

竹崎家の衰退後は宇土城主・名和顕孝に伝わり、さらに顕孝の娘が天草の大矢野城主・大矢野種基に嫁ぐ際に大矢野氏の祖先が元寇に出陣していることから引き出物として大矢野家にもたらされた。(このように所有者が代わる過程で当初、正副二本あったものが一本にまとめられたと考えられているそうである。)

その後、大矢野家は加藤清正に仕え、加藤家没落後は細川家に仕えた。文政8(1825)年になると、大矢野家は絵巻が散逸するのをおそれて細川家に保管を依頼したが、明治2(1869)年の廃藩の時に大矢野家に返還された。

そして明治23(1890)年の12月に大矢野家の当主である大矢野十郎が上京して、蒙古襲来絵詞を宮内庁に献納(御買上げ)して「御物」となり、現在では「三の丸尚蔵館」に保管されている。

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