すべての一之宮を訪ね終えて…
2011年5月30日に和泉国の一之宮である大鳥大社を訪ねたことにより、私は日本全国の一之宮を訪ね終えることができました。
しかしながら、私には訪ね終えたという実感もなければやり遂げたという達成感もありませんでした。
というのも、旧国の中には複数の神社が一之宮を名乗る国が少なからずあり、私はそれらをすべて訪ねたわけではなかったこと、真夜中に訪ねて真っ暗な中で参拝した神社が少なからずあったこと、雨の中で訪ねたり、年末年始などに訪ねたために仕方のないこととはいえ、正月飾りや大勢の参拝客などのためにロクな写真を撮ることができなかった神社が少なからずあったこと、山頂が本宮とされている神社についても訪ねていなかったことなどがその理由です。
また、大鳥大社を訪ねる前に摂津国の一之宮である住吉大社を訪ねたのですが、その際に「ふと」それぞれの旧国の一之宮を訪ね歩いている中で、私はそれぞれの神社に祭られている御祭神のことを意識したり考えたことがなく、それではあまりにも片手落ちではないか?これまでやってきたことは一体なんだったんだ?と思ってしまったことなどもあったからです。
よく考えてみると神社とは「実によくわからない存在」です。
そもそも私たちは神社を訪ねた時に何に頭を下げ、何に柏手を打って、何にお願いをしているのだろうか?
もっともそんなことは考えたことがない人の方が大多数かも知れませんが、私はまさにあと大鳥大社を訪ねれば日本全国のすべての一之宮を訪ね終えることができる!そんな最後の最後のタイミングでこれまで自分がしてきたことは一体なんだったんだ?と思ってしまったわけです。
大鳥大社の参拝を終え、大阪から神奈川県の自宅に帰るまでの間、なぜ私は一之宮巡りをしてきたのか?それはどういう意味があったのか?結局のところ何のためだったんだ?というようなことをずっと考えながら帰りました。
正直、なぜ一之宮巡りをはじめたのかは自分でもよくわかりません。
が、いつの頃からか自分の意思で日本全国を旅するようになると同時に、訪ねたその行く先々でそれぞれの国の一之宮を訪ねることは私の中ではごく自然と当たり前のことになっていました。
理由なんてありません。あえて探すとするならば日本人としてのDNAがそうさせたんだというべきだと思います。
いずれにしてもその日は何ともいえない脱力感に包まれながら家路に就いたのでした。
結局、その後、現在までに山頂が本宮とされている神社を除き(もちろんこれらの神社も里宮には参拝しています)、すべての一之宮(複数の神社が一之宮を名乗っている場合にはそれらすべて)を日のある明るいうちに訪ねることができました。
ロクな写真がない一之宮についても再訪問を繰り返して、何度も何度も朝一ダッシュをしてすべての神社で「誰も写っていない境内の写真」を撮り終えることができました。
なぜ、そうまでして神社に行くのか、神社を訪ねた時に何に頭を下げ、何に柏手を打って、何にお願いをしているのか?というのは未だに結局よくわかりませんが、深夜や早朝などの誰もいない境内のピーンと張り詰めた緊張感のある雰囲気や、けがれのない清々しさに畏敬の念を持つ、それがたまらなく好きなのは今も昔も変わりません。
かの西行も伊勢神宮を訪ねた際に「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という歌を詠んだとされています。
言い得て妙だとは思いませんか?
一之宮のトップページへ
最新情報をお届けします
コメントを残す