平時忠の墓




平時忠の墓

所在地→石川県珠洲市大谷町

平氏政権の最盛期に「平家にあらずんば人にあらず」と豪語したことで有名な平時忠の墓。

時忠は才知に富み、さらに姉・時子が平清盛の正室となり、妹である滋子が後白河上皇の妃(建春門院)となり、高倉天皇の母となった関係でめざましく昇進して正二位権大納言にいたり、清盛の側近として権勢をふるい平関白と称された。

壇ノ浦の合戦で捕らえられると、三種の神器の一つ、神鏡を守ったことを主張すると共に、源義経を娘婿として保身を図ったが頼朝の厳命で能登に流された。

吾妻鏡によれば文治5(1189)年に2月24日に同地で没したとされているが、時忠の末裔として同墓所を護持してきた則貞家の伝承では源氏方の監視を逃れ、当地に居を定めて子をなし、元久元(1204)年4月24日に没したと伝えられている。

現地の看板より

平時忠卿及び其の一族の墳(珠洲市大谷町則貞地内)

この石塔群は、平時忠一族の墓と伝承され、もっとも背の高い五輪塔が時忠の墓とされている。

時忠は 代々朝廷に仕えた公家で、智略家として知られた。姉時子は平清盛の妻、妹滋子は後白河天皇の女御となり憲仁親王(のちの高倉天皇)を生んだことから権勢をふるい、正二位権大納言にまで昇った。また源義経は、娘婿でもあった。

寿永4(1185)年壇ノ浦合戦で捕縛され、能登国配流となる。『吾妻鏡』によれば、文治5(1189)年2月24日配所にて没し、源頼朝もその死を惜しんだという。

これに対し、時忠の末裔としてこの墓所を護持してきた則貞家の伝承では、源氏方の監視を逃れ、当地に居を定めて子をなし、元久元(1204)年4月24日に没したとしている。則貞家住居跡と当墓所の発掘調査の結果、住居跡は鎌倉時代初頭にさかのぼるが、墓所は室町時代後半に整備されたものとみられる。

 

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