「初代琉球国王」の「舜天王」と「源頼朝」は従兄弟だった?




「初代琉球国王」の「舜天王」と「源頼朝」は従兄弟だった?

「初代琉球国王」の『舜天王』と「鎌倉幕府の初代将軍」である『源頼朝』は実は「従兄弟だった」との噂を聞き付けましたので、早速レポートをしてみたいと思います。

現在の「沖縄県」は江戸時代以前は『琉球王国』という「れっきとした」「独立国」でした。

では琉球国はどのように建国したのでしょうか?まず最初に「琉球神話」における国創り(琉球開闢)伝説を調べてみましょう!

琉球神話における創世神である「アマミチューの墓」

アマミチューは琉球神話における創世神でアマミキヨ、アマンチュー、アマミキュ、阿摩美久、阿摩弥姑ともよばれる女神で男神・シルミチューの妻とされる。

アマミチューはニナイ・カライ(遥か東方の海の彼方にあるという神々の住む楽土、理想郷、神の国)から「ヤハラ司」の海岸に上陸して「浜川御嶽」の洞窟で仮り住まいをしたあとで、ミントンに移りミントングスクを築いたという。

その後アマミチューはシルミチューと結ばれて三男二女をもうけ、長男は国王の初めの「天孫氏」となり、次男は按司の初め、三男は百姓の初めとなり、長女は聞得大君となり、次女は祝女の初めになったと伝えられている。

アマミチューは琉球神話においては国創り神話の神として、地方においては豊穣をもたらした神として伝えられていて、国造りにあたっては七つの御嶽(琉球開闢七御嶽)を創造したとされる。

尚、うるま市の浜比嘉島にはアマミチューとシルミチューが居住したと伝えられている大きな洞窟(シルミチュー霊場)があり、島の東方海岸にはアマンジと呼ばれる岩屋の小島があり、そこにある洞穴を囲い込んだ墓はアマミチューとシルミチューの墓と伝えられているという。

玉城城

琉球神話における創世神でアマミキヨの長男の子孫とされる天孫氏はアマミキヨが築いたとされる玉城城を居城にして25代17802年つづいたとされるが、記録するということがなかったため、その姓名や事蹟は考察することができないとされている。

しかしながら、この「天孫氏」については古くより『実在が否定』されています。

じつはこの天孫氏、王国時代にもその真偽をめぐって問題になっています。

1731年、歴代王の位牌をまつる崇元寺で天孫氏に対する祭祀が行われていないことを問題になります(もともと実在していないので行われていないのは当たり前ですが)。

諮問を受けた久米村の程順則(名護親方)らは、以下のように回答します。天孫氏の時代には文字がなかったはずなのに、なぜ今に伝えられているのか?中国の王朝でさえ長くて800年ほどの治世なのに、天孫氏王朝が1万年も続いたとは信じがたい。

元ネタになっている『中山世鑑』の序文にも「前代には記録らしいものがない」と書いてあり、同時代の中国の状況と比べても荒唐無稽な話だ。舜天王については時代も近く信じられるが、実在したと思えない天孫氏の位牌を安置するのは無用である。

「名護聖人」と呼ばれた程順則はクールに天孫氏実在説を一蹴し、舜天を琉球開基の王とすることを主張したのです。この意見をうけ、王府は天孫氏の位牌を浦添の龍福寺に安置することを決定しました。天孫氏は王朝時代、すでに実在を否定されていたということなんですね。

出典:目からウロコの琉球・沖縄史

では『琉球国の最初の国王』は一体誰なのでしょうか?

琉球で最初の王といえば、おそらく舜天王をあげる方が多いと思います。

出典:目からウロコの琉球・沖縄史

琉球史書に初めて実在の王として現れるのが、舜天王です。

出典:巨大な浦添城を中心に「王」と呼ばれる有力な支配者が現れる時代

西暦1187年、琉球史上初の王統を開いたのが舜天王です。

出典:舜天王と舜馬順熙王

実はこの「舜天王」は「源頼朝の叔父」である『源為朝の子供』だとされています。

つまり「初代琉球国王」の『舜天王』と「鎌倉幕府の初代将軍」である『源頼朝』は実は『従兄弟だった』ということになります。

これを素直に取ると、琉球王国の初代王である舜天王は日本の天皇家の子孫で鎌倉幕府を開いた源頼朝の従兄弟で清和源氏の一族だということになります。

天皇家・源氏嫡流・琉球王国・略系図

では琉球に伝わっている『源為朝の伝説』とは一体どのようなものなのでしょうか?

保元の乱で敗れて伊豆大島に流刑になった源為朝は、島からの脱出をこころみますが、潮流に流され、運を天にまかせてたどり着いたのが琉球北部の今帰仁(ナキジン)でした。

それでこの港を運天港(うんてんこう)と名づけました。そこから南部に移り住み、大里按司(おおざとアジ)の妹と結ばれて男児をもうけますが、為朝は妻子を残して故郷へ戻ってしまいました。

妻子が為朝の帰りを待ちわびたところが牧港(マチナト・まきみなと)と名づけられ、その尊敦と名乗る子が後の舜天王だという話です。

出典:古琉球/統一王朝の成立

源為朝公上陸之趾

源為朝上陸のいきさつは次のようです。

大島から流された源為朝は「運を天にまかせて」たどり着いたのが「運天」で、そのことにちなんで運天の名前が付けられたという。大里按司の妹をめとり一子をもうけた。

それが、尊敦(そんとん、後に舜天王)。その後、妻子を連れて帰ろうとしたが、波風に妨げられて、妻子を牧港に残しひとり帰国した。

妻子は為朝の帰りを待ちわびたので「まちみなと」=牧港といわれるようになった。子供の尊敦はやがて浦添按司になりやがて王位に就き、舜天王となり琉球王国を治めたという。

出典:運天散策 源為朝公上陸之碑

「いくら何でも」この話は『眉唾ものの単なる伝説』に過ぎないのでは…。

ところが、琉球王府の命により1650年に羽地朝秀によって編纂された『琉球最初の正史』である『中山世鑑』には「舜天王は源為朝の子である」ということがはっきりと記されています!

さらに「中山世鑑」に続いて編纂された琉球王国を代表する正史の一つである『中山世譜』でもやはり『舜天王は源為朝の子である』と記されています。

琉球王国の正史に『舜天王は源為朝の子である』と記載されている以上、これは「単なる伝説」ではなく『紛れもない史実』なのでしょうか?

出典:源氏伝承最大の英雄 琉球を従えた鎮西八郎為朝

実は「中山世鑑」が編纂された約40年前の1609年に『琉球王国は薩摩(現鹿児島県)の島津氏に侵略され』以後は属国のような立場になってしまっていました。

出典:薩摩軍の進行経路図

「中山世鑑」が編纂された1650年は琉球王国が島津氏に侵略されてから40年余りで、薩摩藩の属国のような立場となっていたため、それを容認・前提とした記載をせざるを得なかった事情があったと考えられている。

琉球王府の正史『中山世鑑』に記される舜天(しゅんてん)王は、源為朝(みなもとのためとも)の子であるという伝説があります。

これはたんなる伝説にすぎませんが、その背景には、17世紀初頭に島津氏(しまづし)によって侵攻された琉球が、島津氏に従属する理由づけを必要としているということがありました。

つまり、琉球を徳川政権下の幕藩体制に造作なく組み込ませるために、琉球の国王が徳川や島津と同系統である源氏の血を引いているとする「日琉同祖論」に利用したのです。

このような意図で、為朝伝説は琉球最初の正史に記されることになったのです。

出典:為朝伝説

これは古くから県内に流布した伝説であるが、事実であるかは疑わしい、これは1609年の侵攻によって薩摩藩の支配下に入った琉球が、薩摩藩の初力を緩和しようとした、政治的配慮から出たものといわれる。

出典:沖縄の歴史

いかがでしたか?「琉球王国の初代王」である「舜天王」が本当に源為朝の子供で鎌倉幕府の初代将軍である「源頼朝の従兄弟」であったのかについては、今となってはその真偽のほどは定かではありませんが、薩摩藩の琉球侵攻から近現代に至るまでの沖縄と日本の微妙な関係の一端を垣間見れるような伝説ではないかと思います。

 

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1 個のコメント

  • 最近実家に行くと叔父と
    その話になりました。
    私達は源為朝、舜天王の子孫らしく、家に家系図がありました。
    聖和天皇→源家→初代王.舜天王→二代王.尚巴志→6代王.尚泰久王~…祖父に続いてました。
    ホントなのか、伝説なのか
    ワクワクします!
    子孫も、ものスゴい人数に
    なると思いますが。。笑

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