逃の浦の石塁(元寇防塁)
逃の浦の石塁(元寇防塁)。かつて星鹿城山山麓の鷹島に面する汀線には、「金倉の石塁」とあわせて、野面積みの石塁が約1kmにわたり延々と元寇の役の当時のまま残されていたというが、戦争時の採石や台風被害によりほとんどが崩壊してしまったという。
現存しているのは、この「逃の浦の石塁」の約300mほどだが、そのほとんどは藪に埋もれてしまっていて実際によくわかるようになっているのは約20mほどである。
しかしながら博多湾に残されている元寇防塁が「野に埋もれている」、または発掘されていたとしても現在では「フェンスなどで囲いがされている」などしていて、残念ながら実際にその手で触れてみることができないのに比べて、この逃の浦の石塁は何の制限もされていないので、実際に手で触れることができ、元寇防塁の構造などを肌で感じることができるのが、とてもうれしい。
現地の案内看板より
逃の浦の石塁(元寇防塁)。城山山麓の鷹島に面する汀線には、かつて、野面積みの石塁が約1kmにわたり延々と元寇の役当時のまま残されていました。
しかし、昭和初期の台風で、星鹿浦防波堤決壊の時、修築材として沖の石を取ったので、石塁が大波に洗われ崩壊しました。
原型をとどめているのはこの「逃の浦の石塁」だけとなりました。
海側は高さ2m・幅45~50cm・内法高さ1m、総延長約300mの石塁で、その内側には幅5mの武者走りを思わせる平場があり、背後は崖がせまっています。
地元住民は、この石塁を夷狄から郷土を守るために、当時の領主・領民が共に血と汗を流して完成した「元寇防塁」として伝えています。
松浦市・松浦市教育委員会・松浦市観光協会
所在地→長崎県松浦市星鹿町岳崎免
元寇防塁位置図
元寇防塁のトップページへ
蒙古軍撃退の立役者たちの墓を訪ねるのトップページへ
元寇(蒙古襲来)の史跡マップ(地図)
最新情報をお届けします
コメントを残す