「湘南」とは一体どのエリアのことを指すのか?どこからどこまでが「湘南」なのか?
湘南とは具体的にどの地域・エリアのことなのか?またどこからどこまでが湘南なのか?これは神奈川県民にとって過去に何度となく激論が交わされてきた「古くて新しい」しかしながら「未来永劫答えの出ることのない『永久不滅』のテーマ」である。
なぜならば「湘南」という言葉はあっても「湘南という地名」や「湘南という市町村」があるわけではないからである。
つまり湘南とは「言葉やイメージはあるが、実態がないもの」であり、身も蓋もないことを言えば「幽霊」みたいなもので、同じ神奈川県民でさえも「湘南の定義やエリア・範囲」は「百人百様・議論百出」で「諸説が入り乱れ」「収拾がつかない」状態である。
ところが「湘南という言葉」は「全国的にも有名」で、その『ブランド力、知名度、認知度、好感度、発信力』などは圧倒的なものがあり、底知れないパワーと、とてつもない魅力を兼ね備えている。
であるが故に、一体「どこからどこまでが湘南なのか?」という問題は一部では「かなり深刻で切実な問題」を含んでいて、「大人の事情や各市町村のプライドや対抗心の問題」もあったりと一筋縄では決して解決できない大問題なのである。
所感:「邪馬台国」と「湘南」の「所在地論争」はおそらく、未来永劫答えの出ることのない『永久不滅』のテーマである。
湘南という言葉の由来
では、まず初めに「そもそも論」から入ることとするが『湘南』という言葉の由来や語源については、大きくわけて以下の2つの説がある。
1つは、「相模国」の南の地域を意味する「相南」という言葉に「さんずい」がついて湘南になったという説。
1つは、中国湖南省の洞庭湖に注ぐ川に「湘水」があり、その南の風光明媚な地域を指す「湘南」にちなんだという説。
しかしながら、どちらも有力な確証があるわけでもなく、2つの説をミックスして『相模国の南の地域を意味する「相南」が中国の湘南にあやかって「湘南」と呼ばれるようになった』とまことしやかに説明されていることも多いが、いずれにしても真相は闇の中である。
所感:「湘南」という言葉の由来は実際のところ、よくわからない。
湘南の場所的なイメージ(湘南の範囲)
湘南の場所的なイメージとしては『神奈川県(旧相模国)南部の相模湾に面した地域』のことを指しているというのが、最も一般的なイメージであると思われる。
しかしながら、神奈川県下に相模湾に面している市町村は東から順に「三浦市、横須賀市、葉山町、逗子市、鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、大磯町、二宮町、小田原市、真鶴町」と実に12の市町村にも及ぶ。(※湯河原町も海と面しているが、相模湾とは城ヶ島と真鶴岬とを結ぶ線から北側の海域のこと指すので湯河原市はここでは除外している。)
さすがにこれらの12市町村がすべて『湘南』であるとはいうのは暴論だろう。では一体どこからどこまでを『湘南』とするべきなのだろうか?
所感:湘南とは神奈川県(旧相模国)南部の相模湾に面した地域のことである。
えっ?「湘南ナンバー」のエリアが「そのまま湘南」なんじゃないの?
さて、ここで神奈川県民以外の方から「よく質問を受ける」ことがあるので紹介をする。それは「湘南ナンバーのエリアが湘南なんじゃないの?」という素朴な疑問である。
ところが、神奈川県民に言わせると『湘南ナンバー』は悪評極まりないものである。なぜ悪評極まりないのかを説明する前にまずは神奈川県下の地域別のナンバープレートをご確認願いたい。
前述の通り、湘南のイメージとしては『神奈川県(旧相模国)南部の相模湾に面した地域』、つまり『海に面した地域』ということについては誰もが異論のないところだと思うが、湘南ナンバーのエリアの中には海に面していない「寒川町、伊勢原市、秦野市、中井町、大井町、松田町、開成町、山北町、南足柄市、箱根町」などの山間部や内陸部が含まれているのである。
これでは「いくら何でもおかしい」というのが、神奈川県民の「偽らざる心境・本音」である。
なぜこんなことになってしまったかというと、湘南ナンバーが「旧相模ナンバーが飽和状態になった」ことから、旧相模ナンバーのエリアから分離する形で「新設された」ためである。
このため、陸運事務所の管轄地域の関係で、相模湾に面した地域でありながら「元々横浜ナンバーのエリア」であった「鎌倉市・逗子市・葉山町・横須賀市・三浦市」は当初から「新設される湘南ナンバーのエリア」の議論の対象外であり、最初から公平さに欠く問題があったと言わざるを得ない。
このように「湘南ナンバーのエリア」と現在「湘南といって一般的にイメージするエリア」は『まるで違うもの』となってしまっていて、図らずも『誤解と混乱と深刻で抜き差しならない対立を招く結果』となってしまっているのである。
所感:現在の「湘南ナンバーのエリア」と「湘南といって一般的にイメージするエリア」はまるで違うものである。
神奈川県民がイメージする湘南の定義は?
さて、前振りが長くなってしまったが、おそらく神奈川県民がイメージする湘南とは概ね以下のような感じではないだろうか?
〇一番狭い範囲だと江ノ電沿線のエリア
〇ここは必ず入るのではないかと思われる「コアエリア」は藤沢・鎌倉。
湘南の最も象徴的なシンボルともいえる『江ノ島』は藤沢市にあるため、藤沢市が「湘南」であることは誰もが異論のないところではないかと思われる。また、江ノ島と同じく湘南の最も象徴的なシンボルの一つであるといえる『江ノ電』は藤沢駅(藤沢市)から鎌倉駅(鎌倉市)を結んでいるため、藤沢市に加えて鎌倉市も「湘南エリア」の当選確実なコアエリアではないかと思われる。
しかしながら、鎌倉市民には鎌倉幕府が置かれた「古都」としてのプライドがあり、かねてより湘南エリアと見なされるにことに少なからず抵抗があるとも言われているなど、一筋縄ではいかない複雑な事情も内包されている。
所感:鎌倉市民にとって鎌倉を湘南エリアと見做されることは「はた迷惑な話」でプライドが許さない?
〇一番当たり障りがないのは茅ヶ崎から葉山まで。
〇ちょっと広めで大磯から横須賀。
〇一番広いと真鶴町から三浦市まで。
湘南のエリアを確定させるべく神奈川県内をくまなく実地調査をしてみた!
机上の空論だけでは永遠に答えは出ない!湘南のエリアを確定させるべく、物的証拠を探すための現地調査、実地調査に赴くこととした。
湘南の「一丁目一番地」である藤沢市!
まずは何はともあれ「江ノ島」のある藤沢市へと向かった。ちなみに江ノ島と名の付く駅は以下の3駅がある。(いずれも所在地は藤沢市)
江ノ島駅(江ノ島電鉄)
片瀬江ノ島駅(小田急線)
湘南江の島駅(湘南モノレール)
『ここは湘南の碑』
江の島入口の交差点からすぐ近くの「藤沢市片瀬海岸1丁目13番地」には『ここは湘南』の石碑がある。
石碑の裏には平成17年11月に江ノ島観光株式会社によってこの石碑が建立されたことが刻まれている。このことからこの石碑は公的に建てられたものではなく、私的に建てられたものであることがわかる。建立されたのも平成17(2005)年と比較的最近のことである。
いずれにしても『我(藤沢市)こそは湘南』であるという強烈で猛烈な自尊心と自負が伺われる。
前述の通り、藤沢市には『江ノ島』と並んで湘南の最も象徴的なシンボルとおぼしき『江ノ電』も藤沢市を走っているので、神奈川県下の他の市町村がどうあれ、藤沢市だけは「湘南エリア」とすることに「100%当選確実」と言って差支えがないものと思われる。
『湘南高校』
続いて訪ねたのは「藤沢市鵠沼神明5-6-10」にある神奈川県立の『湘南高校』である。
この高校は大正10(1921)年に創立した高校で、全国にもその名を轟かせている「神奈川県内屈指の進学校」でもある。
『湘南』というそのものズバリ!の名前を背負っていることから鑑みても、やはり現在の藤沢市が湘南エリアであると認識されていたと考えて間違いがなさそうである。
尚、余談になるが、神奈川県下の高校で甲子園で初の全国制覇を成し遂げた高校は以外にも、この『県下屈指の進学校』である『県立』の『湘南高校』である。
それは戦後間もない昭和24(1949)年の第31回全国高校野球選手権大会でのことで、当時、創部4年目初出場での全国制覇は「奇跡」と称賛されたらしい。
所感:藤沢市は湘南の一丁目一番地である。
『湘南の陰に隠された「西湘」という地域・エリア(問題提起)』
「湘南」と違って神奈川県民以外にはまったくといっていいほどに馴染みが薄いことと思うが、神奈川県内には地域・エリアを表す言葉として『西湘(せいしょう)』という言葉がある。読んで字のごとく「湘南の西側」の地域・エリアを指す言葉である。
ところが「湘南という地名」や「湘南という市町村」が存在していないのと同様に西湘についても「西湘という地名」や「西湘という市町村」があるわけではない。
これまで繰り返してきたように「そもそも」どこからどこまでが「湘南」であるのか明確な定義がないため、西湘についてもその地域・エリアについては流動的である。
しかしながら、神奈川県民に「西湘」という言葉は広く一般に定着していて、神奈川県民の中には間違いなく「西湘」という地域が「絶対確実」に存在している。
このため、湘南のエリアを「相模湾に面するすべての市町村」と定義することは「西湘」の存在を完全に無視した『暴論』であり、人道的・教育的な観点からも決して許されるものではない。
神奈川県民以外にはピンとこないかも知れないが、本来であれば「湘南」のエリア・範囲を語るのであれば、それとセットで「西湘」のエリア・範囲についての議論も決して「避けて通れないもの」のはずである。
但し「西湘エリアに認定される」ということは、すなわち「あなたは湘南エリアではありません」という、受け取る側の人にとっては「死刑宣告」を受けるようなものである。例を挙げれば、
相模川から西を「西湘」とするならば、平塚市は湘南ではなくなる。
同様に大磯町から西のエリアを「西湘」とするならば、大磯町は湘南ではなくなる。(以下同文)
わけである。ここではこれ以上の深追いはしないが、神奈川県下にある「西湘」と名の付く2つのものを紹介することとする。
『西湘バイパス』
ちなみに西湘バイパスは「大磯町」から「小田原市」に至る自動車専用道路である。
『西湘高校』
西湘高校は「小田原市」酒匂1-3-1にある。
所感:「西湘」という隠し玉によって、大磯以西の地域・エリアが「湘南」であるのかどうかについてはかなり雲行きがあやしくなってきた様相である。
『湘南発祥の地はどこか?』
では、そろそろ本題に入ることとしよう!
そもそも神奈川県下において「湘南」という言葉が「初めて使われたのは一体いつのことなのか?」あるいは「いつから使われ始めたのか?その場所はどこなのか?」ということを調べてみることにした。
何かの古い文献などに「湘南」という言葉が出てくるのであれば話は早いのであるが、実はこれについては「有力な物証=いわゆる物的証拠」とされるものがある。
その物証は、大磯町の「鴫立庵」の中にある。
ちなみに鴫立沢とはかの「西行法師」が東国行脚の際に「三夕の歌」として名高い「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ(新古今和歌集)」の歌を詠んだ地とされる。
「鴫立沢」には西行法師が三夕の歌を詠んだ地という言い伝えが室町時代よりあり、寛文4(1664)年にその鴫立沢に小田原の崇雪という人が草庵を結んだのが「鴫立庵」のはじまりで、現在では京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされている。
その崇雪が草庵を結んだ時に建てたのが「鴫立沢の標石」である。
磨滅して判読は困難であるが、正面に『鴫立沢』、裏面に『崇雪 著盡湘南清絶地(読み:そうせつ ああ しょうなんせいぜつち=意味:清らかですがすがしく、このうえもない所、湘南とは何と素晴らしい所であろうか)』と刻まれているのである。
この「鴫立沢の標石」に刻まれたものこそが「湘南」という言葉を使った「最も古い記録である」とされている。
つまり神奈川県下で初めて湘南という言葉が使われた場所は大磯町ということである。
これはもちろん、というかまぎれもなく、いや一点の曇りもなく『大磯こそが湘南である』ということに他ならない。
大磯町ではこれ(※鴫立沢の標石)にあやかって「大磯駅前」と「鴫立庵の前を通る国道1号線沿い」に「湘南発祥の地」の石碑が立てられている。
大磯駅前の「湘南発祥の地」の石碑
鴫立庵の前を通る国道1号線沿いにある「湘南発祥の地」の石碑
これだけ決定的な物証が出てきたからには、もうこれ以上の議論の余地はなく、大磯町を除く各市町村には速やかに退場を願わなければなるまい。
尚、現在「鴫立庵」にある「鴫立沢の標石」はレプリカ(複製)であり、『本物の鴫立沢の標石』は塩害による磨滅から守るために大磯町の郷土資料館に移設されている。
本物の「鴫立沢の標石」は大磯町郷土資料館の裏(屋外)に置かれて保存されている。
職員の方曰く、こうして「鴫立沢の標石」を訪ねてくる人は「年に1人くらい」いるらしい。。。
モルタルで補強されてしまっているのが少し残念である。
後ろから見てみた。裏面には『崇雪 著盡湘南清絶地』と彫られているはずだが、やはりわかりにくい。
そこで、魔法の粉を使って「湘南」という文字を浮かび上がらせてみた。
確かに「湘南」という字が彫られている!
鴫立沢標石の所在地→神奈川県大磯町西小磯
所感:これだけ確実な物的証拠が出てきた以上、これより先に議論の余地はなく、ついに湘南を追いかける長い長い旅路もようやく終わりを迎えられそうです。大磯町以外の市町村の皆さんは残念でした。全部「後付け、こじ付け、詐称」です。荷物をまとめて速やかに裏口からお帰り下さい。
これにて一件落着!めでたしめでたし!
と こ ろ が ・ ・ ・
神奈川県民の常識を根底から覆す衝撃の新事実!かつて存在した幻の『湘南村』
これ以上ない「物的証拠」が出てきたため『ついに湘南論争に終止符が打たれた!これにて一件落着!』と思っていた矢先に『神奈川県民の常識と認識を根底から覆す衝撃の事実』が思いもよらないところから発見された。
何と、かつて神奈川県下に『湘南村』という村が存在していたという驚天動地の歴史的事実が発覚したのである。
現場は『まさかの相模原市内』である。相模原市といえば「神奈川県の県北に位置し、海とも接していない内陸部」である。
湘南の『神奈川県(旧相模国)南部の相模湾に面した地域』という場所的なイメージと真逆に位置しているのが相模原市である。
もう何が何だかわからないが、早速、かつて湘南村が存在していた場所に急行することとした。
確かにそこにはかつて「湘南村」が実在していた「確たる痕跡」が数多く残されていた。
『湘南小学校』
『湘南寺』
『津久井警察署湘南駐在所』
まさか「湘南」の『神奈川県(旧相模国)南部の相模湾に面した地域』という場所的なイメージとは「正反対」の「海に面してもいない山奥」にかつて『湘南村』が実在していたとは。。。
尚、城山町史では湘南村のことは以下のように紹介されていた。
小倉村と葉山島村は合併し湘南村として発足した。
名称の由来は相模川を文人たちが「湘江」と呼んでいたところから湘江の南にある2か村が1つになることから湘南という名が生まれた、と伝えられている。
発案者は戸長で小倉村に住んでいた馬場健二で、かれは漢詩人大沼枕山の下で塾生として修業を積んだ人であった。
青天の霹靂とはまさにこのこと。心の底からビックリ仰天した。
つまり一時期「湘南」とは『神奈川県(旧相模国)南部の相模湾に面した海の地域』のことを指していたのではなく、旧相模国と同じく相模という名前を冠した「神奈川県のど真ん中」を流れる『相模川』流域のことを指していた時代があったということである。
ちなみに湘南村は明治22(1889)年に小倉村と葉山島村が合併して誕生した。
その後、昭和30(1955)年に川尻村、三沢村の一部(大字中沢)と合併して城山町となったことにより、その歴史を閉じた。
また、その城山町も平成19(2007)年に相模原市に編入となり、現在は相模原市の緑区に属している。
まとめ
結局のところ、最初に書いた通り、湘南とは「言葉やイメージはあるが、実態がない蜃気楼のようなもの」である。
であるがゆえに、どんな答えを導き出したところで、結局は「屁理屈」、「こじつけ」になってしまうだろう。
強いて言うならば「湘南がどこにあるのかと問われれば」、『我々、神奈川県民「一人一人」の心の中にある』というのが、一番無難で穏当で妥当な答えではないだろうか。
~完~
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