八戸・根城・遠野南部氏家系図(清和源氏新羅三郎義光流)




清和源氏新羅三郎義光流『八戸・根城・遠野南部氏家系図』

○南部氏系図の考察

・南部氏の歴史や系図は近世大名として生き残った盛岡南部氏によって江戸時代になってから作り上げられたいわゆる勝者の歴史であり、そこには実際にはあり得ないと思われる明らかな矛盾や同時代の他の文献や記録と照合するとつじつまが合わない事柄が数多く存在する。つまり江戸時代初期に成立した南部氏の系図や家伝はすべてが事実ではなく、近世初期に政治的な理由から古来の伝承を改変した部分がかなりあるものと思われる。

・これまでの通説では奥州南部氏の起こりは南部氏初代の光行(甲斐源氏、加賀美遠光の三男)が、文治5(1189)年の頼朝の奥州攻めに戦功をあげて糠部郡の全域(糠部数郡、糠部五郡との説もあり)を与えられ、建久元(1190)年(これも諸説あり)に糠部郡三戸に入部したものだとされてきたが、糠部郡というのは他の諸国であれば一国に匹敵する広大な郡であり、鎌倉御家人の中でも相当な有力者でなければ糠部郡の地頭職に任命されるはずがなく、事実、鎌倉時代の確実な古文書や記録から明らかになるのは、糠部郡全域が北条氏の所領であったこと、内部の地頭代職も五戸が三浦氏、その他も佐々木氏、工藤氏、横溝氏などが地頭代となっていて、鎌倉時代に南部氏が糠部郡に領地を持ち、統治をしていたという史料的裏付けはない。つまり初代光行が頼朝から糠部郡を賜り、奥州に下向したという家伝は後世の付会であろうとされ、鎌倉時代には糠部地方に南部氏の所領ははなかったという説が有力である。但し、まったく所領がなかったのかという謎も残る。いずれにしても南部氏の糠部への本格的な進出時期は南北朝初期まで下がると考えられている。

・これまでの通説では南部氏初代光行には六人の子供がいて、長男行朝が一戸氏の祖に、次男実光が正室の子で嫡家(三戸)を継ぎ、三男実長(六男という説もあり)が波木井氏(のちの八戸氏)の祖に、四男朝清が七戸氏の祖に、五男宗朝が四戸氏の祖に、六男行連が九戸氏の祖となるなど、光行の子供たちは波木井実長を除いて全員が父とともに奥州に下向し、糠部郡内に分かれて南部一族の祖になったとされている。しかしながら、甲斐国に残った南部一族は波木井氏だけではなく、甲斐南部氏ともいえる一族が南北朝時代に足利方で活躍し、室町時代まで生き残っていた。その他にも、但馬の南部氏、越中の南部氏、摂津の南部氏、若狭の南部氏などが存在したことが、同時代の古文書や記録から確認されるが、こうした事実は奥州南部氏の系図や家伝からはまったく見えてこない。これは全国各地に広がった南部一族が、奥州南部氏を除いて戦国時代末までに滅び去り、近世大名として生き残ったのが、三戸盛岡南部氏のみとなったことによるものと考えられる。つまり現在の南部氏系図とは南部一族(光行の子孫)をすべて記したものではなく、奥州に下向した一族のみの系図であり、それをあたかも南部氏全体であるかのように主張したものであるといえる。

・奥州南部氏には大別すると八戸南部氏と三戸南部氏の2つの系統がある。通説では南部光行の次男実光が南部嫡流家を継いで三戸南部家の祖となり、三男(あるいは六男)の実長が甲斐波木井を領して波木井家の祖となり、孫の長継の時に南部嫡流家の三戸南部家の政行の次男師行が婿養子となって四代目を継ぎ、師行が八戸南部家の直接の祖となったとされている。つまり奥州南部氏は三戸南部氏が嫡流で八戸南部氏が庶流であるというのが通説であるが、近年の研究では八戸南部氏こそが奥州南部氏の嫡流家=惣領家だったのではないかと考えられるようになっている。

・これまでの通説では八戸南部氏は波木井家を継いだ家で、三戸南部氏の庶流であるとされている。しかしながら、南部氏発祥の甲斐国では波木井家は一三代続き戦国時代に武田信虎に滅ぼされたことが明確となっている。これは本来は奥州南部氏の惣領であった八戸南部氏が、戦国時代末に独立した大名となる道を逃し、三戸南部氏に従属することとなり、江戸時代の初めにその家臣となって生き残りをはからざるを得なかったことから主家となった三戸(盛岡)南部氏をはばかって系図の改変を行って創作したものであり、実際には波木井家と八戸南部家はまったくの無関係であるのではないかと考えられている。

・南部氏の嫡流家=惣領家を名乗り(名乗りは太郎、次郎、三郎と本来は男子の子息の生年による序列を示す呼称だったが、武士の「家」が固まった鎌倉時代以降はその家の後継者を示すものとなった。)から検討すると、まず鎌倉時代の南部家惣領の名乗りは「次郎」または「孫次郎」「又次郎」であり、鎌倉末、南北朝時代にこれを継承していたのは八戸南部家であって、三戸南部家ではない。続いて戦国時代に三戸南部家が奥州南部氏の惣領として戦国大名化を進めていた時代の名乗りは「彦三郎」であった。そして、戦国末の晴政、晴継の死後の混乱を乗り越えて三戸南部家の家督を継ぎ、盛岡南部氏の初代となった「田子九郎信直」以降の盛岡南部家当主の名乗りは「九郎」あるいは「彦九郎」である。以上の事実は、奥州南部氏が、少なくとも二度、惣領家の変化があったことを示している。まず一度目は、鎌倉末、南北朝時代の「南部次郎」家から室町時代の「南部彦三郎」家への変化であり、これはまさしく奥州南部氏の嫡流家が八戸南部家から三戸南部家に移行した事実を反映したものだと考えられる。次いで「南部彦三郎」家から「南部九郎」家への変化であるが、後者は南部信直の三戸南部家継嗣が三戸南部家の家督の強奪であったことを物語っているといえる。

・これまでの通説では三戸南部氏は天文8(1539)年の本三戸城の炎上で相伝文書が焼失したとされているが、近世の信直を祖とする盛岡南部氏が三戸南部氏の文書を継承できていない(天文8年以降、天正14年までの文書も一点もない)ことからも信直の継嗣が三戸南部家の家督奪取であったことを暗示している。

・三戸南部氏第24代当主晴政は長く男子が生まれず、元亀元(1570)年にその娘を正室として南部信直を養嗣子として迎い入れた。しかし晴政に実子・晴継が誕生すると、次第に信直を疎むようになり、信直本人も身の危険を感じていたのか、天正4(1576)年に正室が早世すると養嗣子の座を辞退し、田子城に引き籠もり居を転々とした。その後、晴政が死去し、実子の晴継が25代を継いだが、父・晴政の葬儀を終えた夜に何者かに暗殺されてしまう。(これには信直の暗殺説も囁かれている。)晴政・晴継と相次いだ死によって三戸南部氏は直系が絶えることとなり、ここに家督争いが勃発した。晴継の後継を決定するために一族重臣十数名による評定が開かれたが、南部信直、九戸政実、八戸政栄の有力候補者3人は病と称して列席しなかった。会議では九戸政実の弟・実親を推す意見もあったが、北信愛や南長義から支持された信直が、南部氏第26代当主を継承することとなった。これが原因で九戸政実は遺恨を抱き、のちに九戸の乱を起こす引き金となった。

・近年では信直の家督継嗣は信直によって内戦が引き起こされた結果、晴政親子が攻め滅ぼされたという説も浮上している。

・三戸南部氏の十代は茂時とされているが、これは太平記に北条高時に殉じたとみえている「南部右馬頭茂時」をあてたもののようである。但し、高時に殉じたのは北条一族の「南右馬権頭茂時」で九戸にも所領を持っていたとされる人物で太平記がこの人物を南部と誤り、江戸時代に作られた南部系譜もこれをもとに十代茂時という人物を創作したとの説がある。

・南部氏は建武の中興前には糠部地方にはいなかったという説が有力になっている。八戸南部氏が糠部に最初に下向したのは、建武の中興の直後に師行が糠部郡奉行および検断職として派遣されたものであり、これは史料的にも確認されている。では三戸南部氏の方は一体いつ糠部に下ってきたのかという最大の謎が残る。しかしながら、南北朝時代の文書・記録には現在の「南部氏系図」には見えない南部一族が数多く登場する。師行・政長の奥州下向はこれら多数の一族を引き連れてものだったと思われ、三戸南部氏の祖先もそのうちの一人だったと考えられる。具体的には観応2(1351)年の正月に始まる観応の擾乱に際し諸国の南朝方が蜂起した時に鎮守府将軍・北畠顕信を支えた糠部南部氏の中心人物として「南部伊予守」や「南部信濃守」といった武将が登場する。この2人は伊予守・信濃守といった官途を与えられていることから、南部一族の中でもかなりの地位と勢力を持っていたことが考えられる人物である。しかも八戸南部氏とは明らかに別系統の一族で両者に相当する人物は八戸南部氏の系譜には登場しない。つまり八戸南部氏の一族としてともに奥州に下向した「南部伊予守」や「南部信濃守」がのちの三戸南部氏の祖となった人物であると推定される。

○南部氏系図の考察のまとめ

・三戸盛岡南部氏には天正14年以前の文書が一点もなく、近世以降の編纂による諸記録によらざるを得ないため、中世の動向は明らかではない。

・南部氏は初代の光行が、頼朝の奥州攻めに戦功をあげて糠部郡を与えられたとされてきたが、光行が奥州攻めに参加したことは吾妻鏡で明らかであるものの、糠部郡給与については家伝以外に頼るものがなく、鎌倉時代には南部氏の所領が糠部郡にはなかったのではないかと考えられている。

・南部氏は八戸南部氏も三戸南部氏も南北朝時代に糠部郡に下向してきたものと考えられる。

・これまでは南部氏の嫡流は三戸南部氏で、奥州下向は本貫の甲斐の所領を放棄して一族をあげてと伝えられてきたが、甲斐国では南部氏や波木井氏の嫡流と思われる系統が戦国時代まで残っていたことが明らかである。つまり奥州に下向したのは南部氏の庶流で傍系の一族だと考えられる。

・八戸南部氏は波木井家を継いだ家であるとされてきたが、戦国時代まで甲斐国に波木井氏が存在していたのは明らかであり、実際に波木井家と八戸南部家はまったくの無関係であるのではないかと考えられる。

・南部氏は建武の中興前には糠部地方にはいなかったという説が有力になっている。実際に南部氏が糠部に最初に下向したのは、建武の中興の直後に八戸南部氏の祖となる師行・政長兄弟であり、この八戸南部氏こそが奥州南部氏の嫡流で、三戸南部氏の祖先は師行・政長と一緒に下向した一族の一人だったと考えられる。

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2 件のコメント

  • 実家が四戸なんですが、四戸は江戸時代には地名で消えていたようです。
    それでも四戸を名乗る人たちがいるのは不思議な感じがします。
    曾祖父まではわかっているので、その先が知りたいものです。

  • 南部家(氏)をよく研究されていますね。
    テレビにもよく出演さなっているようで、貴殿の見解が広まっては少し危惧を覚える箇所がありましたのでお知らせするとともに、ご意見をご教示ください。

    (1)「三戸南部家の家督の強奪」の根拠をご教示ください。ほぼ状況根拠ではないでしょうか。あるいは近年の出版本の影響でしょうか。私にとっては「強奪」という過激な言葉(ある本ではクーデターなどと言っていますが)ではなく主家の存続を踏まえての「当主交替」ととらえています。強奪の言葉を用いた方が受けはよいでしょうが。
    そもそも南部信直が招いたのではなく24代晴政が招いたものです。
    (2)「南部信濃守」三戸南部氏の祖。これには賛同できます。私どもはこれを南部信行と見ています。北東北の古刹天台寺の鰐口「大旦那 源信行」と指定しています。
    (3)南部家の近世における家系図操作はご指摘の通りです。現在は八戸南部の南部師行も三戸南部氏と考えられており、これが八戸根城に拠ったので八戸南部として栄え、その親子か兄弟が南部信行としてとらえています。
    南北朝期の南部師行に関する書状は残っていますが、糠部を支配したこと、南部家の相続関係の書状は一通もなく、北畠氏から業務命令を受けてそれをこなすといったものばかりです。南部師行が「1333年に糠部に下向して、翌年1334年に根城を築いた」という築城の早さ(南朝側として戦ばかりしていたはず)、八戸に居住したという根拠文書もないことから、これまで『遠野南部家文書』だけで語られてきた「もとは八戸、そのあと三戸」という見解が見直されています。

    全体としては貴殿の「八戸・根城・遠野南部氏家系図」の記述を支持するものですが、上記が気になったためコメントいたします。

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