最上氏家系図(室町幕府羽州探題家・清和源氏足利流)




清和源氏足利流『最上氏家系図(室町幕府羽州探題家)』

○最上氏系図の考察

・初代兼頼から十二代義光に至る系譜は、諸書によって若干の相違がある。最上氏の姓は山形地方の当時の郡名によったものであるが、いつから名乗ったものなのか、その年代は明らかではない。また兼頼以後、義光に至るまでの斯波最上氏の治績を伝える記録はほとんどなく、僅かに系図に註記された事項のみである。

・最上系図では諸本とも初代兼頼から二代直家、三代満直、四代満家までは共通しているが、満家の長子頼宗、次子義春の代に混乱が見られる。頼宗は四代満家の長子であるが世襲から外し、義春を五代とする系図もある。(現在の山形市史でも通説として家督相続から除外されている。)しかし家督相続を認める系図や史料が数多くあり、城主として治政にあずかっていたことは明らかであると思われる。

・四代満家は長瀞殿と呼ばれ、その晩年を山形北方約二十キロの長瀞館に隠遁し、嘉吉三(1443)年に没した。長子頼宗は、その2年前の嘉吉元(1441)年に父に先立って死んでいる。四代満家の山形退去、五代頼宗の早世、弟、義春の襲封など一連の流れは斯波最上氏嫡流家の内部事情の複雑さを暗示しており、このことから、この時、斯波最上氏の嫡流に何か政変があったのではないかとの説もある。

・宝徳元(1449)年8月に足利義政は羽州探題の山形(斯波)竹松殿宛てに御教書を下している。この時竹松殿は幼年だったらしく、以後史料に現れることはない。この宝徳元(1449)年頃に探題権を行使していた竹松殿を五代頼宗の子息とみる説もある。

・六代義春のあとを弟の義秋が嗣いだが、兼頼以来の斯波最上氏の嫡流はここで絶え、従兄弟の満氏が庶流の中野氏から義秋の跡を嗣いで中野・山形両地を知行した。近江最上氏系図には満氏の項に「義秋の家務」という註記があり、山形城の家務執事としてその実権を握っていたことが察せられる。このことから、一門の中野氏が斯波最上氏の嫡流から自立し、自ら嫡流の座を奪い取ったとする説もある。

・六代義春、七代義秋の出自については四代満家の子ではなく、三代満直の子供とする史料もある。

・八代満氏を七代義秋の叔父とする史料がある。また他の史料では満氏の父を三代満直とするものもあり、満氏は三代満直の晩年の子で、満基の養嗣子となったとする説もある。

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