CATEGORY 蒙古軍撃退の立役者たちの墓

河野通有の墓

河野通有の墓 河野通有は源平合戦で有名な河野通信の孫であるが、当時の河野氏は通信が承久の乱で上皇方に加担したため所領所職の大半を失っており、通信の子である通久が河野一族の中で唯一鎌倉方についたことによりかろうじて命脈を保…

竹崎季長の墓(蒙古襲来絵詞の作者)

竹崎季長の墓(蒙古襲来絵詞の作者) 竹崎季長の墓。季長は鎌倉時代後期の武士で肥後国の住人。 菊池氏の一族とする説が有力であるが、本領の益城郡竹崎を失っていた季長は、文永11(1274)年の元寇の際に、少弐景資の指揮のもと…

相良頼俊の墓

相良頼俊の墓(願成寺) 相良氏の第三代当主・相良頼俊の墓。 頼俊は長頼の三男で寛元4(1246)年に父・長頼から肥後人吉荘内の所領を譲られ、さらに建長6(1254)年には兄・頼親の跡を継ぎ相良家の第三代当主となった。 そ…

宗助国(資国)の胴塚

宗助国(資国)の胴塚 宗助国(資国)は宗家初代・重尚の末弟で重尚から襲封云々とあるが確証はない。 一方、他の確実な史料における宗氏の初見で、対馬守護・地頭である少弐氏の守護代、地頭代を勤めていたことが知られる最初の人物で…

松浦答の墓(平戸松浦家第14代当主)

松浦答の墓(平戸松浦家第14代当主) 平戸松浦家第14代当主・松浦答の墓(満福寺跡)。 答は弘安の役の際に鷹島に上陸した蒙古軍を迎撃壊滅させるための戦いで重傷を負ってここで自刃したという。 境内には答の墓と答と共に戦い、…

河野通時の墓

河野通時の墓 河野通時の墓。通時は河野通信の子で通久・通継の弟。 本領の伊予国久米郡石井郷をめぐって兄・通継とその子・通有と相論を起こした。(この時は通継を惣領とし、通時には一部を分与することで和与が成った) 弘安4(1…

蒙古軍撃退の立役者たちの墓を訪ねる(元寇・文永の役・弘安の役)

蒙古軍撃退の立役者たちの墓を訪ねる(元寇・蒙古襲来・文永の役・弘安の役) 蒙古襲来(文永の役・弘安の役)という未曾有の国難に際し、祖国防衛のために命を投げ打って戦った救国の英雄たちの墓をコツコツと訪ねては、手を合わせて頭…