細川勝元の墓(応仁の乱の東軍の総大将)




細川勝元の墓(応仁の乱の東軍の総大将)

所在地→京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町(龍安寺)

応仁の乱の東軍の総大将・細川勝元の墓。勝元は細川宗家である京兆家・持之の嫡子で、父・持之の死去により嘉吉2(1442)年に13歳で家督を継ぎ、将軍義勝の偏諱を受けて勝元と名乗り、摂津・丹波・讃岐・土佐の守護となった。

文安2(1445)年に父・持之以来の政敵であった畠山持国にかわって16歳で管領となり、以後、都合3回、通算21年余り管領に在任した。当時細川氏は一族で9ヶ国の守護であったが、山名氏も嘉吉の乱の功で赤松氏の分国を併合して8ヶ国の守護と細川氏と拮抗する大勢力となっていた。

そこで、勝元は畠山持国に対抗する意味からも山名持豊(入道して宗全)の女婿となり、畠山氏の内訌では宗全とともに畠山政長を支援して畠山義就(持国の子)に対抗させ、また将軍義政が赤松家再興に反対した宗全を追討しようとすると義政を諫めるなど、当初は宗全との協力態勢により細川氏の勢力の維持・強化を図ろうとした。

しかしながら、赤松家の再興を勝元が支援するようになるとこれに反対する宗全と次第に対立するようになり、斯波氏の内紛では宗全派の斯波義廉を退け、斯波義敏を支援した。

また宗全が畠山義就を支援するにいたり、さらには足利将軍家の継嗣争いが加わり、勝元が足利義視(義政の弟)の後見人を引き受け、日野富子が対抗して宗全に足利義尚(義政の子)の後見を依頼したことにより両者の対立は決定的なものとなり、応仁元(1467)年に応仁の乱が勃発した。

勝元は東軍の総大将として畠山政長、斯波義敏、足利義視を支援し、畠山義就、斯波義廉、日野富子・義尚母子を支援する山名宗全と抗争を繰り返した。

勝元の東軍方は当初こそ幕府を占拠し、将軍義政を擁して山名追討令を受領するなど優勢であったが、大内政弘が大軍を率いて上洛、西軍方に加わったことにより、両軍の勢力は互角となり、戦局は長期化の様相を呈するようになった。膠着状態が続く中、未曽有の争乱は地方にも拡大、勝敗が決まらないままに、文明5(1473)年3月に宗全病死、続いて勝元も5月に病死した。

翌年4月にそれぞれの家督を継いだ山名政豊と細川政元との間で和睦が成立したが、世はすでに戦国時代に入っていた。

 

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