細川政元の墓




細川政元の墓

細川政元の墓。政元は応仁の乱の東軍の総大将・細川勝元の子で、文明5(1473)年に勝元が没したため、8歳で京兆家を継ぎ、摂津・丹波・讃岐・土佐の守護となり、管領を4度務めた。

長享3(1489)年に九代将軍・義尚が近江国で陣没すると、政元は足利政知の子・清晃の擁立を図るが、畠山政長らが足利義視の子・義材(のちの義稙)を擁立して将軍とした。

そこで政元は明応2(1493)年閏4月に政敵畠山政長を攻め殺して将軍義材を廃立し、清晃(のちの義澄)を将軍に擁立、細川京兆家の専制体制を開始した。

しかしながら、政元は修験道に凝って政務を疎んじ妻帯もしなかったので子がなく、九条政基の子・澄之、阿波守護細川成之の孫・澄元、さらには一族の細川高国をも養子に迎えている。

このため有力被官間の抗争が激化し、養子とした澄之・澄元・高国の家督争いにまき込まれ、澄之派の香西元長らに暗殺された。

所在地→京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町(龍安寺)

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください