鎌倉大仏(長谷の大仏)




鎌倉大仏(長谷の大仏)

鶴岡八幡宮と並んで古都鎌倉のシンボルである鎌倉大仏(長谷の大仏)

正式には阿弥陀如来像で、仏身の高さは約12m、耳の長さ約2m、目の長さ1m、周囲35m、重さ約120トンといわれる巨大な青銅造である。

いつ訪ねても一般観光客はもちろん、外国人観光客や修学旅行、社会見学、遠足等の団体客で賑わっている光景がおなじみでもある。

この日本国内はもちろん、世界的にも有名な鎌倉の大仏は、建久6(1195)年に奈良東大寺再建供養会に参列した源頼朝が鎌倉にも大仏建立を発願したが果たせずに没し、頼朝に仕えた稲多野局が意志を継いで、僧浄光が造立したとの伝承が残されているが、実は国家的事業として造立された奈良の大仏とは異なり、造立の目的や資材の調達、完成までの工程など明らかにされていないことが多く「いつ、誰が、何のために、どのように造ったのか」が今も明らかになっていない謎多き大仏でもある。

大仏造立については吾妻鏡によると暦仁元(1238)年3月23日条に「深沢の里で大仏堂の建立を始める。僧浄光が勧進をしてこの営みを企てた」とあるのが最初の記事である。

任治2(1241)年3月にはこの大仏殿の上棟の儀があったとされ、翌任治3(1242)年秋に鎌倉を訪れた東関紀行の作者がこの大仏と大仏殿の三分の二が出来上がってあることを記し、定(浄)光上人が関東で勧進活動をした成果によることや、奈良の大仏と比較しながら約12mの高さで木像であることなどを比較的詳しく述べている。

そして寛元元(1243)年6月に八丈余の阿弥陀如来坐像を安置した堂舎が落成し、大仏供養が行われている。

ところがこの僅か9年後の建長4(1252)年8月17日に「深沢の里に金銅八丈の釈迦如来の像を鋳始めたてまつる」との記事が吾妻鏡に載る。釈迦如来とあるのは誤記であろうとされており、この金銅造大仏が現在の大仏にあたると考えられているが、吾妻鏡にある大仏に関する記述はこれが最後であり、前の大仏がどうなったのか、なぜ木造大仏に代わって金銅大仏が造立されたのか、金銅大仏がいつ完成したのかなどは未詳である。

 

また、造立当初はあったとされる大仏殿については地震や大風で破損や倒壊がたびたびあったようで「太平記」には建武2(1335)年に北条時行の兵が大風を避けて堂内に入ったが、堂が倒れて500余人の死者が出たと記されている。

また応安2(1369)年にも大風で崩壊している。(鎌倉大日記)

文明18(1486)年に大仏を訪ねた万里集九は、大仏の胎内で往々博奕が行われたこと、堂宇がなく露坐で高くそびえていたことなどを記しており(梅花無尽蔵)、大仏殿を失って荒廃した様子がうかがえる。

さらに明応4(1495)年には洪水に見舞われ、明応7(1498)年には大地震と津波により大仏殿を失ったとされる。

このように大仏殿は修復と再建を繰り返しながら、存在していたが、明応7年の破損の記録を最後に再建の形跡はなく、礎石だけを残して500年以上、今に至るまで『露坐の大仏』となり、この大仏の代名詞としても知られるようになった。

尚、古来、多くの文人が鎌倉大仏の歌を残しているが、与謝野晶子が詠んだ『かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな』は特に有名である。

 

 

 

 

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