「世紀の大発見」だった古事記の編纂者である『太安萬侶(太安万侶)の墓』とは?
奈良県の奈良市に日本現存最古の書である「古事記」を編纂した『太安萬侶(太安万侶)の墓』があるとの噂を聞き付けましたので、早速レポートをしてみたいと思います。
大安萬侶は日本現存最古の書である『古事記』の編纂者として有名です。
安萬侶は元明天皇の命で古事記の編纂に着手し、天武天皇の勅命で稗田阿礼が誦習していた帝紀や先代旧辞を文章に記録し和銅5(712)年に献上したとされる。
ところが「古事記」については江戸時代より偽書であるとの疑いが論じられてきました。
古事記については江戸時代の中頃から「後の世」に作られた偽書であるとの疑いが論じられてきた。(偽書説には序文のみが偽書だとするものと、本文も偽書だとする二つの説がある。)
その理由としては、すぐ後に編纂された「日本書紀」に古事記に関する記載がないこと、奈良時代を叙述した正史である「続日本記」にもやはり古事記について記載がないこと(日本書紀については続日本紀に編纂についての記載がある)、古事記という書名が史料の中に初めてみえるのが、弘仁4(813)年に多人長によって撰上された「弘仁私記」の序文によることなどから古事記は奈良時代後期の成立であるとか、さらに時代が降って平安時代初期に成立した偽書であるといった説が現在に至るまで根強くある。
さらには、「太安万侶は伝説上の人物で、実在しなかった」という説も一部ささやかれていた。
しかしながら昭和54年1月に太安萬侶の墓が発見されました!
太安萬侶墓は、東山山中の田原の里に所在する奈良時代の火葬墓で、昭和54年1月、竹西英夫氏によって茶の改植中に発見されたもので、出土した銅製墓誌により、古事記の編者として有名な太安萬侶の墓であることが明らかになった。
太安萬侶墓模型(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
竹西さんは、近所に住んでいた、当時奈良市の職員であった川尻タケノさんを通して、市の教育委員会に連絡してもらうことにした。対応したのは7年前、高松塚古墳の発掘にも携わった岡崎氏。竹西さんの掘り出した、「…太朝臣…」の文字が書かれた板、つまり「墓誌」を見るなり、言い放った。「これは竹西さん、えらいことや。高松塚以上の騒ぎになりますよ!」。早速、県立橿原考古学研究所の当時の所長・末永雅雄氏の指揮の下、現場での発掘作業が進められ、1月23日、奈良県庁にて記者発表が行われた。
太安萬侶墓碑(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
このニュースは、新聞各紙が翌24日の朝刊で一斉に取り上げ、考古学史上まれにみる大発見として、日本中を駆け巡る。のどかな茶畑が広がる田原の上空には新聞社のヘリコプターが数機飛び交い、竹西さんのところへは取材陣が詰め掛けた。
出土した銅製墓誌に「左京四條四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之養老七年(723年)十二月十五日乙巳」の41文字が刻まれていた。
一時は“古事記偽書”説がささやかれ、安万侶の存在を疑問視する見解もあったが、名が刻まれた墓誌の発見により、実在論はほぼ決定的となった。
では改めて太安萬侶の墓をじっくりと見てみましょう!
現地は本当にのどかな景観が広がっています。
この世紀の大発見により古事記が和銅五(712)年に安萬侶によって作られたことは事実と見なして差し支えないと言われるようになったという。
いかがでしたか?太安萬侶のお墓を訪ねたならば「日本最古の書である古事記の編纂者の墓が発見される」なんて『何という奇跡なんだ!』と興奮せずにはいられません。皆さんも奈良を訪ねた際には是非足を伸ばして太安萬侶のお墓も訪ねてみてはいかがでしょうか?
所在地→奈良県奈良市此瀬町
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このニュースを聞いた時は驚きました。墓って言うのは誰のもんだか、天皇でさえも分からないものが多いし、片や地方の大きな前方後円墳でさえも分からない、作る意味さえ分からなくなる。ますます日本史に興味を持ちました