天正遣欧少年使節の中で、ただ一人棄教した千々石ミゲルの墓(と思われる石碑)
千々石ミゲルは天正年間(1582~90)にローマに派遣された天正遣欧使節4人(伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノ)の1人で、4人の中でただ1人キリスト教を棄てた人物とされる。
ミゲルは千々石町の出身で、永禄12(1569)年頃に生まれ、13、4歳で使節となった。
帰国後、天正19(1591)年にイエズス会に入会するが、慶長6(1601)年頃に同会を脱会。
その後、大村藩に仕え、神浦・伊木力に600石の食禄を受けている。
その間に名を清左衛門と改めて妻を娶り、4人の子息に恵まれた。
また、慶長11(1606)年に出された大村藩によるバテレン追放令で、清左衛門はキリスト教を邪法と進言し、自らも従兄弟で大村藩藩主・大村喜前にならい、キリスト教を棄てて『日蓮宗』に改宗したとされる。
当時多数いたキリシタン側からは強い非難の声があがり「大敵は喜前、その根源は清左衛門である」とされ、裏切り者としての烙印を押された。
喜前はキリシタン禁制発布後の藩内の動揺を鎮めるため、非難の矛先を清左衛門ただ1人に押し付け、見せしめ的に処罰した。
その後の清左衛門は藩政・キリシタンの両方の勢力から追われるように大村を逃げ出し、有馬領(島原半島)に移った。
ただ、そこでも厳しい仕打ちをうけ、元和8~9(1622~1623)年までに長崎に逃れたといわれている。
この墓石は千々石ミゲル(清左衛門)夫妻のものとみられ、施主は、墓石の裏面に名を刻む四男の千々石玄蕃と考えられている。
銘文によれば、ミゲルは寛永9年12月14日(1633年1月21日)、妻の二日後に亡くなっていることがわかる。
尚、この墓石には「大村に対して恨みをもって死んだので、大村の見えるこの地に、大村を睨みつけるように葬った」との伝承が伝えられているという。
いずれにしても、ミゲルの波乱に満ちた生涯を物語るこの墓石は、天正遺欧使節を今に伝える国内で唯一の証でもある。
所在地→長崎県諫早市多良見町山川内75
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