福島正則の墓(福島正則霊廟)




福島正則の墓(福島正則霊廟)

福島正則の墓。正則は数少ない秀吉の血縁の一人で幼少より秀吉に仕え、加藤清正とともに子飼いの武将となり、数々の合戦で戦功をたてた。

天正11(1583)年の賤ケ岳の戦いでは、七本槍の筆頭にあげられ、文禄4(1595)年には清洲城主24万石となったが、朝鮮出兵を境に石田三成・小西行長らの文治派との軋轢を深め、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、三成憎しの一念から率先して東軍(徳川方)に属し、その主力として活躍。戦功により、安芸・備後で49万8千石を与えられた。

しかしながら、徳川の治世となると、豊臣家恩顧の筆頭として幕府から警戒され、築城普請に度々かり出され、大坂の陣の際には江戸城の留守居役を命じられ、事実上、軟禁状態での足止めを余儀なくされた。

そして元和5年(1619)には広島城の石垣修復が武家諸法度にふれたとして信州川中島4万5千石に減封・配流となった。

その際に正則は「弓を見よ、敵ある時は重宝言ふべからず、治国なれば袋に入れて土蔵に入るなり。我は弓なり、乱世の用なり。いま治世なれば、川中島の土蔵に入れらるるなり」との言葉を残したという。

その5年後、正則は信州高井郡高井野村の配所で亡くなった。一説には自害ではなかったかとも伝えられているという。

霊廟内の五輪塔の正面には「海福寺殿前三品相公 翁正印大居士」裏面には「福島左衛門大夫寛永甲子元年七月十三日」と刻まれている。

所在地→長野県小布施町雁田(岩松院)

 

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