「徳川吉宗の享保の改革」に徹底的に反発した『徳川宗春の墓』




「徳川吉宗の享保の改革」に徹底的に反発した『徳川宗春の墓』

江戸幕府第8代将軍である「徳川吉宗」が実施した「享保の改革」に真っ向から異を唱え、徹底的に反対・対立して「積極経済政策」を打ち出し「名古屋」を江戸、大坂、京都に次ぐ大都会へと発展させた『徳川宗春』という「御三家筆頭の尾張藩の殿様」がいたとの噂を聞き付けましたので、早速レポートをしてみたいと思います!

「徳川宗春」のことを紹介する前に、少し時代をさかのぼって「まずは」「尾張徳川家」と「紀伊徳川家」の因縁から紹介をしたいと思います。

徳川家継像

正徳6年(1716)年4月に「江戸幕府」の「第7代将軍」である「徳川家継」は8歳で早世したため「徳川宗家の血筋」は絶えることとなりました。

これにより、御三家より8代将軍が迎い入れられる可能性が出てきました。

名古屋城

このとき候補に挙がったのは尾張家6代の継友(つぐとも)25歳と紀伊家5代の吉宗35歳。水戸家は御三家とは言え、家格が低いため、最初から候補には入っていませんでした。

出典:東海史話

和歌山城

次期将軍候補は、御三家の尾張・徳川継友、水戸・徳川綱条、そして、紀州の吉宗。御三家筆頭、尾張の徳川継友が最有力候補とされていた。

出典:日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒

ところが、結果は「御三家筆頭」の「尾張・徳川継友」ではなく『紀州の徳川吉宗が第8代将軍を継ぐ』ことになりました!

徳川吉宗像

時の老中、間部詮房が将軍に指名したのは紀州の吉宗。正徳6年、6月26日。吉宗は江戸幕府8代将軍に就任した。

出典:日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒

継友、及び尾張藩としては御三家筆頭であり、祖母が将軍家光の娘であることもあって、将軍になるのは当たり前と思っていたようです。そのため、これといった根回しも活動もしていませんでした。

出典:東海史話

当然将軍家になると考えていた御三家筆頭尾張藩は、後継者争いに負け落胆。

出典:日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒

その後「継友」は享保15(1730)年に「失意のままに死去」継友の跡を継いだのが弟の『徳川宗春』でした。

出典:江戸ガイド

宗春は元禄9(1696)年尾張藩主第3代藩主・徳川綱誠の20番目の男子として名古屋城で生まれました。

奥州梁川3万石の領主となりましたが、吉宗との間での8代将軍継承問題で敗れた兄・継友が享保15(1730)年に急死したため、梁川の領地を返上し、尾張徳川家を相続しました。

時は江戸時代半ば、吉宗が進める「享保の改革」の倹約政策により、商いは活力を失い、徹底した規制で庶民は苦しんでいました。

出典:Edo – the EDOPEDIA –

温知政要

宗春は就任直後に「温知政要」を著し、行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめ、消費こそが経済の活性化につながるなどと主張し、吉宗の掲げる質素倹約を基本方針とする享保の改革とは正反対の立場を鮮明にしました。

出典:http://supernil.web.fc2.com/rekisiga/r12.html

宗春は、吉宗とは反対に、娯楽や祭りなどの楽しみを増やし、庶民の活気を引き出すことで、町の繁栄を築こうとしました。城下に芝居小屋や遊郭を誘致するなど開放政策を採り、倹約令で火が消えた街は活況を呈するようになり、その結果、名古屋は発展し、江戸、大坂、京都に次ぐ都会へと成長しました。

しかし、それは幕府の方針とは相いれないものでした。吉宗は使者を送って宗春を詰問、その際に宗春は

「いくら上に立つ者が倹約を叫んでも、その結果、幕府の金庫にお金がたまるだけで民衆が苦しむ状況が続くなら、これは本当の倹約とは言えません。

私は華美な生活をしているように見えますが、それによって世間にお金が回り、実は民の助けとなっているのです。

事実、町人には負担をかけず、農民の年貢も増やしていません。民とともに世を楽しむ。こうした私のやり方こそ、本当の倹約といえるのです」

と反論をしました。

出典:日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒

しかしながら、結局、宗春のやり方は藩重臣との対立を招き、規制緩和による風紀の乱れ、藩の借金増などマイナス面も噴出。

支出を続けた財政は悪化、歓楽地なども縮小し、農民・商人に上納金の割り当てを命じ、民衆の人気を失った宗春に対し幕閣は失脚を画策、元文4(1739)年、宗春は吉宗から蟄居謹慎を命ぜられました。

宗春の失脚が決まった。側近たちは皆泣き崩れた。一人宗春だけは違った。宗春はみじんも敗者の装いを見せず一言呟いたという。「おわり(尾張) 初もの」。自らの藩主人生の「終わり」を、「御三家筆頭藩主に対する初めての仕打ち」と洒落てみせた。

出典:日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒

出典:http://supernil.web.fc2.com/rekisiga/r12.html

徳川宗春は謹慎を命じられると尾張に戻り、名古屋城内に幽閉された。基本的に外出は禁止、母親の葬儀にさえ参列することは許されなかったという。明和元年(1764)、歴史の表舞台に戻ることなくこの世を去る。今日、宗春の肖像画は一枚も残されていない。それどころか、宗春在命中の正式な記録は闇に葬り去られている。

出典:日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒

宗春への処分は厳しいものでした。明和元(1764)年に69歳で亡くなりましたが、墓石にはなんと金網がかけられたといわれています。

それでは『徳川宗春』のお墓を訪ねてみましょう!

問題の金網は没後75年にして名誉回復がなされ、撤去されましたが、現在大きな墓石には大戦中の焼夷(しょうい)弾の跡が生々しく残っています。

尚、焼夷弾の跡が痛々しかった「宗春の墓」は2010年7月8日に墓碑修復が行われたとのことです。

修復後の現在の「宗春の墓」

いかがでしたか?「徳川幕府・中興の祖の名君」として名高い『徳川吉宗』が実施した『享保の改革』に実は真っ向から対立・対決した殿様がいたことを初めて知った方も少なくないと思います。

『天下の御政道』に異を唱えて徹底的に反発した『徳川宗春』の肖像画は一枚も残されてなく、在命中の正式な記録は闇に葬り去られています。

しかしながら「名古屋」の『繁栄の礎を築いたお殿様』として、現在でもご当地では絶大な人気を誇っているそうです。是非皆さんも名古屋を訪ねた際には『徳川宗春』の「お墓参り」もしてみてはいかがでしょうか?

所在地→愛知県名古屋市千種区平和公園3丁目

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください