源氏の追っ手から逃れるために墓碑が建てられていない『平家落人の墓』
ここ祖谷地方は日本三大秘境の一つとされ、日本有数の圧倒的な質と量の平家落人伝説が語り継がれていた地方である。
現在でも、源氏の追討軍が攻め寄せてきた場合に直ちに切り落として、その侵入を防げるように野生のシラクチカズラという植物の蔓を編んで架けたと伝えられている「かずら橋(日本三奇橋)」や日本最古の軍旗といわれている「平家の赤旗」など平家落人伝説にまつわる伝説・伝承や史跡が数多く残されていて、まさに隠れ里といった趣がある。
祖谷に伝わる伝承によると、屋島の戦いで敗れた後、平国盛(教経)の一行は、密かに幼い安徳天皇をお守りしながら、祖谷の地に入山し、山深い祖谷の地で平家再興の望みをつないでいたといわれている。
しかしながら、平家再興の拠り所であった安徳天皇が祖谷入山後しばらくして崩御したため、平国盛は平家再興の夢をあきらめ、この地に土着したという。
その平国盛の子孫が阿佐家であり、現在でも子孫の方が住む「平家屋敷」と呼ばれる館がある。
さらに、平家屋敷の200mほど西に平家落人(阿佐家)の墓がある。
この平家落人(阿佐家)の墓には源氏の追っ手から目をくらますために墓碑が建てられていない。
どの墓が誰の墓であるのかは一子相伝で歴代当主のみに伝えられてきたという。
尚、源平合戦から800年余り、明治維新から数えても140年余り。現在、平家落人(阿佐家)の墓には墓碑が建てられるようになったようだ。
私が平家落人伝説に興味を持ち、初めて訪ねたのがこの祖谷だった。
当時、平家の末裔とされる阿佐家の分家の方にわざわざこの墓地のことを案内してもらった。
その後、10数年振りに再度訪ねた時にも、この平家落人(阿佐家)の墓の場所も墓地の様子も寸分の狂いもなく覚えていた。
東祖谷山村誌には以下のように紹介されている。
阿佐氏の墓所は、 現在、「平家の墓」として、村の有形文化財(史跡) に指定されています。
「村誌」・「ひがしいやの文化財」では、
『平国盛の子孫である阿佐家の墓地は、阿佐部落に接した景勝の地にあり、付近は雑木林に囲まれて開静、清浄な場所である。
丘陵地形のやや平坦なところを選び、苔むした方形の石積みを見ることができる。これが阿佐家の墓である。
自由配置で三十基ほどあるが、 大型のものは、一辺が1.8m、高さ0.3mほどで、やや小型のものもあり、大きさはさまざまであるが、形はすベで方形、上面が平らな石を並べて平面にしている。材料はすべて自然石を用いている。
募標を建てないことが特徴で、誰のお墓であるかは阿佐家代々の口伝で、外部の者は知ることができない。
また、平面は、割合に大きく作られているが、高さは全体に低く、材科の石も比較的小さい。
平家落人の歴史の一端を考察する資料として責重である。
なお、この地方では、阿佐家以外の家では、墓標を建てるのが通例である。』
と書かれている。
最後に
改めて、平家落人の墓を訪ねた印象を振り返ると、平家再興がならなかった無念と悲哀がひしひしと伝わってくるかのようであり、また、源氏の追っ手から身を隠して生きなければいけなかった哀愁が漂う、言葉では言い表しがたい得も言われぬ空間であった。。。
所在地→徳島県三好市東祖谷阿佐
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こんにちわ、とても興味深い記事と写真読ませていただきました。
我が先祖の墓地も同じ三好市の愛媛と香川の県境に位置する佐野高家という地区にあります。この周辺一帯から愛媛県四国中央市や香川県観音寺市、高知県にかけては平家の落人伝説が、ほぼ全地域にあります。この佐野地区も平家の潜伏地だったと三好郡志という古い地方史書にありました。また我が一族も平家の落人であると一族の方から聞いています。そこから6㎞ほどの愛媛県側の切山という地区には安徳天皇伝説と直系子孫、古文書の写しなどもあります。
我が直系先祖の墓地は自然石の墓はないのですが、おそらくご先祖であり一族であろう方の自然石の墓地が周辺にあります。
その写真を掲載しているページにこの阿佐家の墓地の写真も併載したいのですが、よろしいでしょうか?このページへのリンクも貼らせていただきたく。
返事が遅くなり、申し訳ありません。四国には平家落人伝説が広く分布してますよね。写真の併載やリンクはご自由にしていただいて構いません。どうぞ宜しくお願いします。
私の父の実家も伏せ墓です。小学生の頃、帰省したときに見た時はなぜ誰の墓か分からないのか不思議に思いました。地名も半田京都と都への想いを馳せてつけたと言い伝えがあると聞きました。