「卑弥呼の墓」とも言われている『天石門別八倉比売神社の奥の院』




一説には「卑弥呼の墓」とも言われている『天石門別八倉比売神社の奥の院』

天石門別八倉比売神社は鎮座している杉尾山自体を御神体としている神社である。

この杉尾山を含む気延山一帯には200余りの古墳群があり、天石門別八倉比売神社は江戸時代にそれらの中で一番大きな古墳の一部を削り、拝殿と本殿を造営したものであるという。

社殿は前方後円墳の前方部に建立されており、後円部は奧の院となっている。

奥の院(後円部頂上)には五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。

青石の祠には砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立っていて、永遠の生命を象徴するものであるとのことである。

つるぎ岩?

当八倉比賣大神御本記の古文書はご祭神である大日霊女命(天照大神)の葬儀執行の詳細な記録であることから、天照大神=卑弥呼であるとし、奥の院の石積みの祭壇を卑弥呼の墓であると見立てた「邪馬台国阿波説」なるものまであるという。

いくらなんでも邪馬台国が阿波にあったというのは突拍子もない説であり、奥の院の石積みの祭壇が卑弥呼の墓であるとするのは、問題の本質から大きくズレた飛躍しすぎた議論のような気がしてしまう。

とはいえ「邪馬台国阿波説」や「卑弥呼の墓説」を抜きにして考えれば、奥の院にある石積みの五角形の祭壇(磐座)は他に類例が思い浮かばないもの不思議な構築物であり、一体これがいつ何の目的で、どういった意図で造られたものであるのか、そもそもこれは何なのか等、非常に興味深いものがあるが、ネットなどで散見されるのは「これは一説には卑弥呼の墓とされるものである」というものばかりである。

尚、現在では当社が天石門別八倉比売神社と称しているが、「阿波国の一之宮」で「式内社の天石門別八倉比売神社であった」とされる論社は他にも複数(神山町の上一宮大粟神社と徳島市一宮町の一宮神社)あり、実際にはどの神社が『延喜式』に記されている「天石門別八倉比売神社」であるかは決定し難い状況であるという。

拝殿・本殿から奥の院への道のり

奥の院へは拝殿の右側を進む。

この石段を登る。

石段の上には小さな社がある。

ここを登り切ると奥の院の磐座が見えてくる。

何やら得も言われぬ雰囲気がある。

所在地→徳島県徳島市国府町西矢野宮谷531

 

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