CATEGORY 元寇(蒙古襲来)

少弐景資の墓

少弐景資の墓 少弐景資の墓。 景資は少弐資能の三男で少弐経資の弟。 元寇の役では日本軍の中心人物として最前線の指揮者として奮戦したことで知られ、文永の役では、日本の総大将として筥崎に陣取り上陸してきた元軍を迎え撃ち、蒙古…

兵衛次郎の墓

兵衛次郎の墓 兵衛次郎の墓。 兵衛次郎は対馬の守護代・宗助国(資国)の家臣で文永の役の際、対馬小太郎と共に対馬から元軍の襲来を大宰府へ報告するという使命を果たした。 その後、兵衛次郎は少弐景資の幕下となって小太郎と共に各…

宗下野次郎の墓(その1)

宗下野次郎の墓(その1) 宗下野次郎盛忠(盛維)の墓。宗氏家譜には文永の役で討死した将士の名が三十余名列記されていて、その中に宗を名乗る一族が十名いる。 元軍の軍船は九百艘とされ、対馬には全島が襲撃されたとの伝承があり、…

西新(百道) 元寇防塁

西新(百道) 元寇防塁 百道・西新の元寇防塁は約20キロにわたる元寇防塁のちょうど中間地点にあたる。 文永の役(1274年)では元軍がこの百道浜に上陸し、蒙古軍の侵入を余儀なくされ祖原、鳥飼、赤坂一帯が戦場となった。 こ…

星賀海岸の元寇防塁

星賀海岸の元寇防塁 星賀海岸の元寇防塁は星賀八幡神社の裏にそれらしい石積みが残されている。 さらに肥前町史によると星賀八幡神社裏より海岸沿いに約600mにわたって自然石をあまり加工しないで積んだ人工による構造の列石=元寇…

西新元寇防塁

西新元寇防塁 百道・西新の元寇防塁は約20キロにわたる元寇防塁のちょうど中間地点にあたる。 文永の役(1274年)では元軍がこの百道浜に上陸し、蒙古軍の侵入を余儀なくされ祖原、鳥飼、赤坂一帯が戦場となった。 このため防塁…

対馬小太郎の墓

対馬小太郎の墓 対馬小太郎の墓。 小太郎は対馬の守護代・宗助国(資国)の家臣で文永の役の際、兵衛次郎と共に対馬から元軍の襲来を大宰府へ報告するという使命を果たし、その後、博多の防衛戦に参加し、弘安の役でもめざましい活躍を…

箱崎(地蔵松原)元寇防塁

箱崎(地蔵松原)元寇防塁 箱崎地区の元寇防塁は薩摩国が担当した。 箱崎地区の防塁は南の千代付近から地蔵松原付近に至る約3キロに渡って築かれた。 大正時代に調査がされていて、防塁の構造は前面に石積みし、後面は粘土で固めてい…

宗甲斐六郎盛家の墓

宗甲斐六郎盛家の墓 宗甲斐六郎盛家の墓。 宗氏家譜には文永の役で討死した将士の名が三十余名列記されていて、その中に宗を名乗る一族が十名いる。 元軍の軍船は九百艘とされ、対馬には全島が襲撃されたとの伝承があり、宗助(資)国…

姪浜(脇地区)元寇防塁

姪浜(脇地区)元寇防塁 姪浜地区の元寇防塁は肥前国が担当した。 姪浜地区の防塁は西の十郎川から小戸を経て愛宕山に至る区間に築かれている。 現地の看板によると姪浜の北面に当たる脇地区の調査では、砂岩を用いた石積みが3~5段…