東日本大震災で小学生74人が犠牲となってしまった大川小学校




東日本大震災で小学生74人が犠牲となってしまった悲劇の大川小学校

東日本大震災の震災被害の中でも小学生74人が死亡または行方不明となるという最も痛ましい現場の一つである大川小学校の校舎。現在でも解体されずにあの日のままの姿で残っている。

大川小学校と数字(現地の看板より)

〇犠牲になった児童数→74名(死亡70名・行方不明4名)
〇当時の全校児童数→108名(校庭には78名がいたと言われている)
〇犠牲になった教職員数→10名(校庭にいた11名中)
〇海から大川小学校までの距離→3.8キロ
〇大川小学校の海抜→1.1m
〇大川小学校を襲った津波の高さ→8.6m(海抜9.7m)
〇地震発生から津波到達までの時間→51分
〇避難開始→地震発生から50分後(避難開始は津波襲来の1分前)
なぜ50分間も校庭にとどまったのか…。なぜ裏山に避難しなかったのか…。

 

大川小学校で起こっていたこと(現地の看板より)

『14:46分→地震発生』

地震発生後、校庭に避難して点呼。子供たちは不安がっていたが、校庭ではたき火の準備も始まっており、避難する雰囲気ではなかった。たき火のための缶は少なくとも2つ用意され、早い段階で校庭にとどまる決定をしたことがうかがえる。(もしくは話し合いが十分になされなかったのかもしれない)

『14:52分→大津波警報(かつてない緊迫した警報)』

遅くても15時前後には、ここまで津波が来るだろうという情報があった。大丈夫だろうとの意見もあったが、早い段階で「ここさいたら死ぬ、山さ逃げっぺ」と裏山への避難を進言した子供、教員、地区の人、迎えに来た保護者(津波が来るから逃げてと進言)がいる。ラジオも盛んに大津波警報、高台への避難を連呼していた。市広報車は15時25分に高台避難を呼びかけ大川小学校の近くを通過している。

『15:36分→避難開始(津波が来るのに川に向かっている)』

校庭から移動を開始したのは大津波がいよいよ迫って川からはすでに水があふれていた時である。一応上級生が先頭となっているが、整列する余裕などなく、列は乱れており、学年は入り交じっていた。「三角地帯へ移動」という指示で移動開始。「もう津波が来ているから急いで」と言われ、児童の列は自転車小屋の脇から出て、裏道の方に進んだ。行き止まりに突きあたったので、民家の軒先を通り、県道に出ようとしたら川から波が来た。児童が追い込まれたのは、最も狭く、山の斜面も急な場所である。15時35分に車で家を出た近くの人が学校前の県道を通った時、児童は県道に出ていない。校庭から移動した距離と時間は先頭の子で約150m、1分ほど。

『15:37分→津波襲来』

なぜ50分間も校庭にとどまったのか…。なぜ裏山に避難しなかったのか…。

大川小学校を訪ねた人が誰しも思うのは「なぜ裏山に避難しなかったのだろう?」ということではないだろうか?実際に小学校の裏山は傾斜が緩く、低学年でも登れる。毎年椎茸栽培の体験学習も行われていた。また、5分もあれば津波の被害がなかった入釜谷方面への避難も可能だった。スクールバスには会社から「子供を乗せて避難」という無線が入り、すぐに出られるように待機をしていた。地震から津波到達までは51分。時間は十分にあったが、なぜ50分間も校庭にとどまったのか…。なぜ裏山に避難しなかったのか…。

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