「此処より下に家を建てるな」と刻まれている『大津波記念碑』(宮古市重茂の姉吉集落)
「1896(明治29)年の明治三陸大津波」や「1933(昭和8)年の昭和三陸大津波」など、過去に何度となく大津波の被害を受けた津波常襲地帯である三陸海岸地域の住民たちが、子孫への教訓・警告として設置した記念碑や石碑は岩手県内だけでも200基を超えるという。
その中でも「此処より下に家を建てるな」と刻まれていて、この教訓を守り、実際に全ての家屋が石碑の上に建てられていたことから2011(平成23)年に発生した東日本大震災の際に集落全体が津波の被害を免れた宮古市重茂の姉吉地区に建つ『大津波記念碑』はその事実が報道によって広められ、津波記念碑の存在が改めて見直されるきっかけとなったことでつとに有名である。
姉吉地区は本州最東端の魹ヶ崎(とどがさき)から南西に約2キロの場所にあり、大津波記念碑は姉吉漁港から姉吉地区へと延びる急坂の一本道の道路脇に建てられている。
「姉吉漁港」
ちなみに本州最東端の魹ヶ崎へは姉吉漁港からさらに3.7キロの遊歩道を進む必要があり、行くのはなかなか大変である。
「姉吉漁港から魹ヶ崎への遊歩道入口」
石碑(大津波記念碑)には以下の内容が刻まれている。書かれていること(教訓)を胸に焼き付けるためにも是非声を出して読んでほしい。
大津波記念碑・上段
髙き住居は
児孫の和樂
想へ惨禍の
大津浪
此処より下に
家を建てるな
大津波記念碑・下段
明治廿九年にも
昭和八年にも津
浪は此処まで来て
部落は全滅し生
存者僅かに前に二人
後に四人のみ幾歳
經るとも要心何従
現代語訳
高台にある家は子孫に平和と幸福をもたらす。大津波の災いを忘れるな。此処より下に家を建てるな。(上段)
明治29年にも昭和8年にも津波はここまで来て集落は全滅した。生存者はわずかに明治2人、昭和4人のみ。幾年たっても用心あれ。(下段)
この大津波記念碑に刻まれている通り、姉吉地区では明治、昭和と2度の三陸大津波に襲われ、1896(明治29)年6月15日の大津波は11戸の集落を襲い、住民78人のうち、生存者は2人だったという。
さらに37年後の1933(昭和8)年の大津波は3月3日午前2時半頃に発生。太平洋に面し、急な谷に囲まれた集落の住民は逃げる間もなく巻き込まれ、定置網の番屋にいた漁業者約50人を含む14戸の計111人が犠牲となり、生存者はわずか4人と2度とも壊滅的な被害を受けた。
集落は存続が危ぶまれたが、昭和大津波の直後に住民らが石碑を建立。親戚筋から後継ぎを受け入れ、その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになり、石碑の教訓を守り、坂の上で暮らしてきた姉吉地区の全ての家屋が東日本大震災の大津波の被害を免れたとのことである。
実際に現在の姉吉集落の全ての家屋は石碑(大津波記念碑)より上の高台に建てられている。
所在地→岩手県宮古市重茂第10地割19
東日本大震災の際の「津波到達地点」の石碑
尚、大津波記念碑より約50m下ったところ(海に近い方)には東日本大震災の際の「津波到達地点」の石碑が建っている。
大津波記念碑よりもさらに低い所に東日本大震災の津波到達点の石碑が建っているということは、明治と昭和の大津波の方がより奥まで到達したということなんだろうか?
所在地→岩手県宮古市重茂
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