金田城跡(国指定特別史跡)
金田城は現在の対馬市美津島町黒瀬(浅茅湾の南岸)にある天智6(667)年に築城された日本最古級の古代山城で同時期に築城された城跡の中では最も完全に近い原型を遺存している古代山城でもある。
これに先立つ天智2(663)年、わが国(大和朝廷)は660年に唐・新羅の連合軍によって滅ぼされた百済を復興するために大軍を派遣したが、朝鮮半島西岸の白村江の戦いで大敗を喫した。
その結果、逆にわが国が攻め込まれる危険性が出てきたため、唐・新羅の来襲に備えて国内の防衛体制を固めることが急務となった。
このため天智3(664)年には対馬・壱岐・筑紫国等に防人と烽が置かれると共に水城(筑紫国)が築城され、天智4(665)年には大野城、基肄城(筑紫国)、長門城(長門国)が、天智6(667)年には高安城(大和国)、屋嶋城(讃岐国)が、そしてわが国の国防の最前線として金田城(対馬国)が築城され国土防衛の備えとした。
現存する金田城の遺構は標高275mの城山を取り巻くように高さ数メートル、延長2.86kmの石塁(城壁)が延々とめぐされていて、城の周囲は5.4kmである。谷間には水門を設け、城門を構えた三つの城戸(一ノ城戸、二ノ城戸、三ノ城戸)が残されているなど実に雄大で壮観である。
中でも万里の長城を彷彿とさせるかのような石塁は見事というより他になく、特に延々と続いているかのような『南西部石塁』はただただ圧巻である。
尚、近世以来、対馬ではこの城山を「神功皇后の城とする説」と「天智天皇の金田城とする説」が並立していたが、昭和57(1982)年3月27日にこの城山が「金田城」として国指定特別史跡に指定されたことにより、長年続いていた「金田城論争」に明確な終止符が打たれたという。
南西部石塁
東南角石塁
一ノ城戸
二ノ城戸
三ノ城戸
頂上部付近
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