日本で唯一!「円郭式」で完全に『まん丸なお城』である『田中城!』
静岡県の藤枝市に『田中城』というお城があります。
このお城は一般の方には「まるで馴染みがなく知名度もまったくない」お城ですが、実は『特筆すべき点』が『3つ』もある『とてもスゴいお城』です!
その3つとは!
1つは『日本で唯一!たった一つしかない円形(つまりまん丸)のお城である』ということ。
1つは『武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の4人が宿泊・滞在したことがあるお城である』ということ。
1つは『徳川家康が死因となった鯛の天ぷらを食べたのがこの田中城である』ということです。
普通に考えたら、これらはどれか1つに該当しているだけでも『スゴい』ことだと思いますが、それにも関わらず、なぜか知名度はまったくと言っていいほどにありません。
と、ウダウダ言っていても仕方がないので現地を訪ねてみることにします。
まずは「駿河国田中城絵図」に描かれたものを見てみると田中城は『同心円形に四重の堀と土塁』が造られていた堅固なお城だったようです。っていうか、本当に『まん丸』ですね!!!
現地の看板を見てみてもやっぱり「まん丸(円形)」のお城です!これは期待で胸が膨らみますね!
続いてGoogleマップの航空写真で現地の様子を見てみましょう!
う~ん…、どうやら現在は宅地化が進んで、残念ながら「四重の堀と土塁」はごく一部を除いてほとんど残されていないようです。
そうは言っても、往時を偲ばせるものが何にも残ってないわけではないようなので、気を取り直して現地を訪ねてみましょう!
実際のところ、お城の遺構はどのくらい残されているのでしょうか。まずは本丸から訪ねてみたいと思います。
田中城本丸跡
現在、田中城の本丸跡は小学校になっています。校内には往時の田中城の模型が造られています!四重の堀がしっかり再現されているなど完成度が高いです!
三日月堀もしっかり再現されています!
模型には立派な天守閣がありますが、実際には御殿やお亭のみで、天守閣のような建物はなかったそうです。
二之堀・大手二之橋
二之堀は、本丸から二重目の堀で、幅は12.7m~21.8m、深さは2.1m~2.9mでした。
三之堀・土塁その1
三之堀は、本丸から三重目の堀で、幅は18m~27m、深さは1.7m~4.2m、土塁の高さは、水面からおよそ5mです。
土塁の上まで登って行くこともできます!
土塁の上からの眺め。
武家屋敷石垣跡
武家屋敷の石垣は三之堀の前に残されています。
家老屋敷跡・土塁その2
三の丸は土塁の6ヶ所が外に向かって突出した亀の甲羅の形をしているので、別名「亀城」もしくは「亀甲城」と呼ばれていました!
土塁その3
三日月堀(馬出曲輪)
三日月堀というのは、正式には馬出曲輪といい、甲州流(武田式)築城法の一つです!
田中城跡で、現在目にすることができる三日月堀の遺構はここだけだそうです。
現在残されている三日月堀は実際の大きさの約二分の一であるとのことです。
姥ヶ池
江戸時代には田中城の水源となっていた姥ヶ池。
田中城より移築された門(旭傳院の山門)
旭傳院の山門は田中城から移築されたといわれています。
キレイに弧を描いたように同心円形に伸びる道!
田中城跡は宅地化が進んでいますが、城内の道は真っ直ぐな道はなく、ゆるやかな弧を描くような道となっていて往時の「まん丸なお城」の様子を偲ばせるものがあります!
史跡田中城下屋敷
江戸時代後期、田中藩主・本多家の庭園であった下屋敷は、田中城の南東隅にあたり、築山・泉水・茶室が設けられて、四季の草花や月見の名所として知られていたところで、現在は庭園跡が史跡公園として整備されていて、田中城ゆかりの建築物(市指定有形文化財4件)が移築・復元されています。
田中城本丸櫓
この櫓は田中城の本丸にあり、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に建っていたといわれています。本丸の南東隅の石垣上に「御亭」と呼ばれる2階建ての建物があったことが記録にみえ、これに該当するものであると考えられています。
櫓の中では田中城に関する色々な資料が展示されています。
田中城のジオラマ模型
中でも一番の見所は田中城のジオラマです!必見です!
もし田中城の遺構の保存状態がよければ、あの『五稜郭』にも匹敵するような人気を博したような気がします…。
2階にも上がってみましょう!
2階にも色々と資料が展示されています。
戦国期の田中城鳥瞰図(推定復元)
下屋敷にも土塁跡があります。
西益津地区交流センター
西益津地区交流センターにも田中城の資料があります。
駿河国田中城絵図
昭和29年に撮影された田中城全景
建物は失われていますが、曲輪と堀の跡が同心円形に残っています。中央の小学校が本丸跡です。
さて、このように田中城は「日本で唯一」の「円形でまん丸」なお城ですが、前述の通り、それ以外にも特筆すべき点があります。
『信玄、信長、秀吉、家康の4人が宿泊・滞在したことがある城である田中城』
時間が前後していて、一堂に会したわけではないとはいえ、武田信玄・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の4人がこの田中城に宿泊・滞在したことがあると思うと感慨深いものがあります。
「武田信玄」
永禄13(1570)年正月末に今川氏が守る藤枝徳一色城を攻め落とし、田中城と名を改め、2月中旬まで滞在。
「織田信長」
天正10(1582)年4月14日、武田氏滅亡を見届けた信長が、甲府から安土城に帰る途中で宿泊。
「豊臣秀吉」
天正18(1590)年3月18日、小田原北条氏を討伐に向かう途中で宿泊。
「徳川家康」
慶長12(1607)年、駿府に隠居した家康が、駿府城の修築を行った際の工事期間中(3月から7月まで)田中城に滞在。また、鷹狩りのために何度も藤枝を訪れ、その都度田中城に宿泊。
徳川家康が死因となった鯛の天ぷらを食べたのがこの田中城です!
徳川家康が死の原因となった鯛の天ぷらを食べたのがこの田中城です。元和2(1616)年1月21日にこの田中城に鷹狩りに来た徳川家康はここで鯛の天ぷらを食べ、これがもとで発病したと言われています。
幕府の公式史書「徳川実紀」での記載
東照官御実紀の記事で『元和二(1616)年正月二十一日に(家康は)駿河の田中で鷹狩をなさった。そのころ、茶屋四郎次郎が京からやって来て(家康と)お会いになり、さまざまなお話をお聞かせになると(家康は)「最近上方では、なにか珍しいことはないか」とお尋ねになった。
(茶屋は)「あります。最近京や大坂のあたりでは、鯛をかやの油(榧の実からしぼりとった上等な植物油)で揚て、その上にニラをすりかけたものが流行しており、わたしも頂きましたが、大変よい風味でした」と申し上げた。
折よく、原内記清久から能浜の鯛が献上されたので、すぐそのように調理をお命じになり、これをお食べになるとその夜から腹痛にお苦しみになり、すぐに駿府城へお戻りになりご療養に入られた。一旦は容態が落ち着かれたようにみえたが、お年を召しているため、ぶりかえして再度お苦しみになられ順調に回復とはいかなかった。』と記載されている。
(※但し、家康がどこで鯛の天ぷらを食べたのかについては諸説があるようです。)
所在地→静岡県藤枝市田中1-7−20
いかがでしたか?日本で唯一!「たった一つ」しかない!『円形で「まん丸」なお城』で、あの武田信玄・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が宿泊したこともあり、徳川家康が死因となった鯛の天ぷらを食べた『田中城』の魅力は底知れないものがあります。
是非皆さんも静岡県に行かれた際にはこの「田中城」にも足を伸ばしてみてはいかがでしょうか?
尚、現在、田中城は宅地化が進んでいて散策する際にはどこに何があるのか大変わかりにくいので、私が現地を散策した際に作成したGoogleマップの紹介させていただきますので、参考にしていただければと思います。
おまけ:昭和21(1946)年3月26日に撮影された空中写真!
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はじめまして。時々拝見していたのですが、年始早々に近所を取り上げられていて驚きました。
しかも余すところなく、取りこぼしもなく、分かりやすく。
ありがとうございます。
田舎者が大分 板に付いてきた地元民なので、近所の滝は行ったのかしら?とか町中の山城は寄られたのかしら、などと御節介にも紹介したい欲求が沸いてきてしまいました。
また何かの機会に此方に来られることがあれば、、、あっ、お呼びしてイベントでも企画すれば良いのか!ま、そんなこんなで今後も応援してブログ楽しく拝見させていただきます。
はじめまして!
「余すところなく、取りこぼしもなく、分かりやすく。」とのコメントをいただき本当にうれしいです。
是非いつかお目に掛かれればと思いますので、どうぞ宜しくお願いします!
これからもどうぞ宜しくお願いします!